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歴史ガイドに同行して(9-1)      兼平ちえこ  (2009.1

 ゆっくりと穏やかに

 初日の昇る

 丑の年に             ちえこ

 

 にい年のお慶び申し上げます。

 本年も皆様に、嬉しい事、楽しいこと沢山訪れますことお祈りいたします。

 昨年は無差別殺人、親子間の殺人事件、そして突然の無情な雇用打ち切り等、悲しくも怒りの多い一年でした。

 しかし、北京オリンピック、パラリンピック、フィギュアスケート、ゴルフ、テニス等スポーツ界の若者の活躍は、大きな誇りと勇気と希望を与えてくれました。勿論ノーベル賞受賞のシニアの皆さんの活躍も感動でした。暮れに行われたボクシング戦は、内藤選手の謙虚さと気づかいに勝利の女神がほほ笑んだと心に残りました。

 今年も昨年からの引き続きで「常陸国風土記を歩く会」の皆さんへのご案内コースのご紹介から始めたいと思います。

 今回は、現在の石岡小学校敷地内で繰り広げられた歴史のご案内です。M常陸国衙跡、石岡の陣屋門、府中城の土塁、箱式石棺、風間阿弥陀、万葉歌碑 N石岡市民俗資料館へと進めて参ります。

 

  M‐1 常陸国衙跡

 石岡小学校敷地一帯は、今から約一三〇〇年前に常陸国の国衙が置かれた場所と推定されていました。この国衙を中心として現在の旧石岡市域全体を領域とする常陸国府としての古代都市が建設され、常陸国の政治、経済、文化の中核的な役割を果たしました。

 しかし、この繁栄を極めた古代都市は十世紀半ばに起こった平将門の乱によって破壊され、やがてこの地には南北朝時代(一三三六〜一三九二)から、戦国時代にかけて大掾氏によって府中城が築城されました。大掾氏滅亡後(一五九〇)、幾人かの領主が交替しましたが何れもこの府中城の地に支配の拠点を構えました。そして十八世紀の初頭、水戸徳川家の御連枝(徳川将軍家の一門である御三家の分家)、府中松平氏の領地となってこの地に府中陣屋が建設され、明治維新に至る約百七十年間、その支配が続いた。近代になると、この一帯は教育施設が相次いで建設された。まず明治六年に石岡小学校が開校、明治四十三年に新治郡立農学校(現在の石岡一高)、大正元年に石岡実科女学校(現在の石岡二高)、そして昭和二十二年には石岡中学校が開校しました。このように、この地は石岡の枢要として古代から近代に至る歴史を重層的に担ってきたのです。

 常陸国府の成立は七世紀後半から八世紀初頭である。国府の下に郡衙が置かれ、多珂、久慈、那賀、新治、白壁、筑波、河内、信太、茨城、行方、鹿島の十一郡を統括していた。

 常陸国は大国で国府も大規模なものであった。多くの官人や兵役、雑徭のためにやってくる農民たちでにぎわい、国分寺、国衙工房などの施設が存在した。国衙には、国内の政務に携わる行政官の勤務する役所や倉庫群などさまざまな建物があった。

 昭和四十八年、石岡小学校の校舎改築に伴い発掘調査が実施され、多くの柱穴が発見された。その後、平成十年から平成十一年にかけてプール建設に伴う発掘調査では、掘立柱建物跡、溝跡など発見された。この調査は引き続き平成十三年から六次にわたり行い、その結果、この石岡小学校の校庭に国庁が存在していたことが判明しました。常陸国府は、東日本の軍事、経済の拠点として、また宗教文化の中心としての、重要な役割を担っていた。

  M‐2 石岡の陣屋門

 県指定有形文化財(建造物)(昭和四十二年指定)

石岡の陣屋門は文政十一年(一八二八)二月に建てられた。文禄十三年(一七〇〇)初代水戸藩徳川頼房の五男松平頼隆が府中藩主となり以後明治維新に至る約一七〇年の間、石岡地方は府中松平藩の支配下にあった。府中松平家は、水戸徳川家と同様定府と定められ参勤交代はなく、藩主は常に江戸に住んでいた。

 江戸時代に代官その他の役人が在任した屋敷や役宅は一般に陣屋あるいは陣屋敷と呼ばれていた。石岡の陣屋門は、本柱の上に妻破風造(つまはふづくり)の屋根がつき、本柱の上にも本屋根と直交してそれぞれ別棟の小屋根をつけ、扉と控柱とを覆っている高麗門の形式である。

 この門は、石岡小学校の校門となっていたが、現在の市民会館建設の為、昭和四十四年に学校敷地内に移転された。

 M‐3 府中城の土塁

 市指定史跡(昭和五十三年指定)府中城は、正平年間(一三四六〜一三七〇)大掾詮国により築城されたといわれる。天正十八年(一五九〇)十二月大掾清幹が佐竹義宣に攻められ落城した。落城後は、義宣の叔父佐竹義尚が城主となり、慶長七年(一六〇二)佐竹氏の秋田国替後は、六郷政乗がこれを領した。城の規模は東西約五百メートル、南北約四百メートル、本丸、二の丸、三の丸のほか、箱の内出丸、磯部出丸、宮部出丸を備え、また堀、土塁をめぐらした、堅固な城郭であった。現在では、土塁や堀の一部が残っており、当時をしのぶことが出来る。台地にしっかりと根を下ろした榎の大木が当時を語ってくれるかのようです。

 

 M‐4 箱式石棺

 舟塚山古墳群第九号墳より出土。この石棺は、石岡市北根本六八一番地より、昭和五十一年の発掘調査によって発見されたものである。

 古墳は、今から約一三〇〇年前のものと推定され一辺約十三メートルの方形を表した古墳で、周囲に幅一、五メートル、深さ六十センチメートルの溝をめぐらしている。

 石棺は、扁平な板石を組み合わせた箱式石棺で、内部には人骨二体が埋葬されており、初め一体を埋葬し、後にもう一体を埋葬するという追葬の形式がとられていることが確認された。

 関東における箱式石棺の分布をみると、茨城県に最も多く、なかでも霞ヶ浦周辺に濃密な分布をしめている。年代的には古墳時代後期(約一五〇〇年前)頃から出現するのであるが、本古墳のように飛鳥、奈良時代に入ってつくられたものの方が数多くみられる。

 ご夫婦、それとも親子、ロマンがひろがります。(石岡市教育委員会案内版より)  

 M‐5 風間阿弥陀

 市指定有形文化財(昭和五十五年指定)。

 この風の会会員の菅原さんの奥さんがゆかりのご子孫であり、また同じく会員の打田さんが、会報の第十七号で「過去の無い石」のタイトルで紹介しています。

 風間阿弥陀は、高さ約一三〇センチ、五輪塔が壊れたような形をしている。小栗城(旧協和町)の守り本尊として祀られていた。応永三〇年(一四二三)小栗城落城の折、小栗十勇家臣の風間次郎正興、八郎正国親子が三河に落ち延びる途中(旧千代田町下志筑)、幼い四代目三郎正三と共にこの阿弥陀を残してきた。それが風間家で代々守り続けている阿弥陀である。「風間家古文書」によると、本尊は地下に埋没し、地上に粘土で固めた像を作製したと言い伝えられている。

柔らかいまるで幼子のような感のする阿弥陀さまに心が温まります。  

 M‐6 万葉歌碑

 『庭に立つ麻手刈り干し布さらす

           東女を忘れたまふな』

 常陸守兼按察使(あぜち)に藤原宇合が任命されたのは養老三年(七一九)七月のこと。現在の茨城への赴任であった。平安貴族と違い万葉時代の貴族たちは、きっちりと地方勤務をこなした。宇合(藤原鎌足の孫、赴任時は血気盛んの二十五歳だった)は、無事に任期を全うし、帰任することになりました。当然、帰任に際し国府で歓送の宴が催されたであろう。その宴に侍った女性のひとりが、この歌の作者、常陸娘子(ひたちのおとめ)であった。常陸娘子が宇合に対してこう歌うのでした。「庭で育てた麻を刈ったり、干したり、布にしたりするようなあずま女をお忘れなさいますな」と。

 「娘子」は若い女性を呼ぶ称であり、今で言うなら「ミス常陸」と言うところかもしれない。古代においては、衣服に関わる生産活動は女性労働であった。そして麻は東国の特産品であり、税としてその多くが都に献納されていたのでした。

 宇合については、常陸国風土記を完成させて、大政官に奏上した監修者と考えられている。

 東女さんは、情の深い、心の強いお方だったのでしょうか。

 

 N 石岡市民俗資料館

 石岡小学校開設百周年記念事業として昭和四十八年に完成された。

 発掘調査で発見された古代の遺物や市民が寄贈した民俗資料を中心に展示している。出土品では、奈良、平安時代の茨城廃寺跡、国衙跡、国分増寺、尼寺跡等から発見された瓦や土器など、そして常陸国分増寺跡、鹿の子C遺跡の復元模型も見どころです。寄贈された民俗資料には明治、大正時代に盛んだった、醤油や酒づくりに使われた道具など、商都として栄えたころの資料も多い。一階では昨年三月に終了した国衙跡での出土品の整理が行われています。

 開館は、金、土、日、祭日、午前九時から午後四時三十分。入館無料。私事ですが同会館に、一八〇年の命に感激し、描いた陣屋門を展示させて頂いております。

今回は、石岡小学校敷地内の文化財のみの紹介となりました。

(参考資料・石岡市の歴史と文化財)