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歴史ガイドに同行して(8)      兼平ちえこ  (2008.12

  「土橋通りに入ると真正面に陣屋門が見え、子供心にはその偉容は格別でした。行き帰りにその扉や柱に手を触れては親しみを覚え、この門を潜ることによって心構えの切り替えが出来たように思います」

 これは昭和十年四月に石岡尋常高等小学校に入学された方の「小学校時代の思い出」の一節です。

 陣屋門は市民会館建設のために、今では同会館裏側に移され、お役目は閉じられ、今年で二百八十年の命を誇っている姿を思い描きながら、今回の「常陸国風土記を歩く会」の皆さんへのご案内は、土橋通りよりJ昭光寺、K東耀寺、L常陸國總社宮をご紹介しましょう。 

 J照光寺

 所在地、府中二丁目四‐九、宗派浄土宗、本尊阿弥陀如来。応安七年(一三七四)、府中平村の鹿ノ子の地に創建された。開基は、常陸大掾平高幹。開山は、下野国円通寺開山の良善上人。檀越(僧の為に、金品等ほどこす信者)の大掾氏は次第に伽藍を整え、府中八十箇寺の中にあって五大寺に列したという。その後、天正十八年(一五九〇)、府中城主大掾浄幹が佐竹義宣に攻められ落城。その時の兵火に罹り焼失。その後、佐竹義宣の叔父佐竹左衛門慰が寺の消失を悔い、本山、円通寺より称往上人を招き、文禄四年(一五九五)に現今の地に再興を果たした。

 この地は府中六名家の一家、香丸氏の屋敷跡といわれる。江戸時代になり、元禄十三年(一七〇〇)には水戸徳川家の支藩である松平播磨守頼隆(水戸光圀の弟)が入封した際、当寺は松平家菩提寺となり、幕府より黒印十石が付与せられ、山内を整備している。江戸後期には、照光寺学寮と称して学問所として武家の子弟の教育を行い、常時三十名前後の学生が入寮し、勉学に励んでいた。明治六年の石岡小学校創設の際にはその校舎として当寺が利用された。なお、幕末の天狗党の変の折り当寺は田丸稲之衛門派の陣営に用いられ、党員が柱、鴨居に切りつけた傷痕は、今も残っている。

 K東耀寺

 所在地、石岡市若宮一丁目一‐十三。宗派天台宗山門派、本尊阿弥陀如来。

 明治三十一年の寺院明細帳によると、養老五年(七二一)に創建となっている。舎人親王(天武天皇の皇子)が、常陸国をご巡回の折り、霞ケ浦を船で渡られたが、その時、阿弥陀如来像が船に流れ着いてきたので、親王はそれを拾いあげて、当寺を建立したのが寺のはじめであるという。また筑波山の中禅寺にいて八郷の峰寺、岩瀬の月山寺などを創建している徳一大師の創建との言い伝えもある。

 創建当時は法相宗、そして真言宗となり幾度か変遷して、江戸時代、寛永十七年(一六四〇)天台宗となる。慶長七年(一六〇二)に徳川家から除地高十五石を与えられた。

 書道の兼子天来、新撰組の鈴木三樹三郎、天狗党の小林豊次郎、生麦事件の佐谷戸貞三郎の墓がある。

 L常陸國總社宮

 所在地、総社二丁目八‐一、祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、大国主尊(おおくにぬしのみこと)、素盞鳴尊(すさのうのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、大宮比売尊(おおみやひめのみこと)、布留大神(ふるおおかみ)。

 天平年間(七二九〜七四九)に天神地祇六柱を国府の南の丘に迎えて創建したといわれている。一般に総社と称する神社は諸国の国府所在地に多く、その創設年代は明らかではない。

総社の始まりについては国府において都の神祇官と同様、祭神の中心として国内の神社を総括管理するという説。国内の神社を合わせてまつることで、国司が国内の神社を巡拝するのに代えたとする説など、諸説がある。社伝によると始め国家鎮護の社として全国のうち常陸、武蔵、甲斐、駿河、長門、対馬の六国府が選ばれ、常陸国府に第一創建あるべしの勅命により建てられたとある。(石岡市教育委員会、案内板より)

 常陸国総社宮例大祭は、九月十四〜十六日で(ここ二、三年前から、敬老の日をはさむ三日間)、町内獅子、山車等が練り歩き、三日間で数十万人の人々で賑わう。

 社宝 @総社文書。この文書は、治承三年を最古として鹿島神宮より古く、天保年間に及ぶ貴重な資料である。A三十六歌仙絵馬。これは文亀三年小川城主薗部氏の女千代益が寄進したものといわれている。B三武将、太田道潅、入野左衛門就景、佐竹義宣の軍扇。 

 以上、今年最終号として、府中城の濠に架けられた「土橋」に由来する地名、土橋通りに近在する二寺一社のご紹介となりました。出来るだけ多くの皆さまのお手元に届き、お役に立てて頂ければ幸甚に存じます。

 一年間、ご愛読頂き誠に有難うございました。お元気でご越年下さい。 

(参考資料・石岡市史、いしおか昭和の肖像、石岡の地名)   

 

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