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歴史ガイドに同行して(3)      兼平ちえこ  (2008.7)

 会報二十四号より「常陸国風土記を歩く会」の皆さんへのご案内コースを紹介しておりますが、四月に(高浜、北根本、田島、貝地地区)五月に(旧石岡市内の寺社を中心とした地区)六月は(染谷、風土記の丘方面)と三ヶ月にわたりました熱心な見学が終了しました。

 今回は、四月に行なわれました後半のコースG茨城廃寺礎石、H茨城廃寺跡、I石岡城(外城)跡をご紹介しましょう。

 G茨城廃寺礎石

 十一面観音堂より来た道を田島一丁目十二の表示の所まで戻ります。田島公民館通りに出て左折(右折は公民館へ)、間もなく番犬のいる(吠えますのでご注意)Y字路、右の細い道に入る。見上げると茨城廃寺礎石の案内板と小目代公民館がこんもりとした木々の中から浮かび上がってきます。案内板裏側の一段低い所に一つ、直径一メートルほどの円筒に加工された礎石(円柱座造出をもつ古い形式の土台石)の緑の苔が古代の物と感じさせてくれます。案内板によりますと、茨城廃寺跡は、石岡貝地二丁目に所在する古代寺院である。昭和五十四年から三次にわたる発掘調査により約一六〇メートル四方の寺域の中に金堂、塔、講堂などの遺構が確認され、八世紀初期の寺院跡であることがあきらかにされた。また発掘調査により出土した遺物の中に「茨木寺」「茨寺」の墨書銘のある土器(現在風土記の丘展示室に展示されており、必見です)が発見され、この寺は茨木寺(うばらきのてら)と呼ばれていたことがわかる。この礎石は寺院廃絶後、ここに運び込まれたものであろうが、古代寺院を知る資料としては貴重なものである。

 H茨城廃寺跡

 礎石案内板を後にして、ゆるやかな坂を約二十メートル進み、貝地二丁目九の表示の所を左折、約三十メートル先、竹林を背にする民家の後、貝地二丁目十四表示のところを左折。四十五メートル位前進、そして右へ。左側にある数軒の借家の背後に茨城廃寺跡案内板。Gと重複するする所がありますが一部抜粋してみます。石岡地方は古代には茨城郡と呼ばれていた。茨城廃寺跡は、古くから茨城郡寺跡と推定されていたが、昭和五十四年からの発掘調査により郡寺としての性格規模が明らかにされた。建立年代は国分寺に先行し、八世紀初期と考えられる。伽藍(主要建造物)配置は塔と金堂が東西に並び北に講堂が位置している法隆寺式で、寺域は約一町半四方の規模を持っていたことが明らかとなった。またこの調査で瓦、仏像線刻瓦、金銅・鉄製品、硯、土師器(はじき)、須恵器(すえき)、和同開珎など出土(風土記の丘展示室に展示されている)した。墨書銘の土器で、この寺は「茨木寺」と呼ばれていたことがわかり、全国的にもめずらしく、当時の寺院名を判明する資料として貴重である。

 それでは、古代寺院の境内へとまいります。現在では栗畑、野菜畑になっています。その間の道路を境として、左側の借家辺りに金堂・鵄尾も輝いていたことでしょう。その先に五重塔がそびえ立ち、右側に講堂、如何でしょう、古代の栄華を描くことが出来ましたでしょうか。そして前進、すぐにT字路、左折し、次は石岡城へと参ります。

 I石岡城(外城)跡

 左折して約四十五メートル先の右側に竹林と電柱が見えます。その間の道、乗用車がすれちがい出来ぬほどの上り坂。頂上はカーブミラーの背に竹林と杉の木のあるT字路。この竹林は城の濠になっているという。左折すると、まもなく石岡城(外城)跡の案内板が見えてきます。竹林の切れたところに石の鳥居、キツネさんのお出迎え。岡田稲荷神社、続いて札掛大明神、かつての繁栄を懐かしむかのように静かに鎮座している。広々とした畑を前に筑波の連山も古代からの変らぬまなざしを注いでくれている。南側に恋瀬川を臨む丘陵地。

今回は、この広大な景色の中に身を置き、また次回とさせていただきます。

 

宙に 一夜の舞い 二人

七月七日 ちえこ