先月、五月号より、去る四月十二日に行なわれた「霞ヶ浦、常陸風土記を歩く会」の皆さんへのご案内コースを紹介していますが、今月は、C萬福寺 Dきんちゃく石 E茨城発祥の地 F十一面観音堂 までをお話ししましょう。
Dきんちゃく石
近郷の子供達は茨城童子と聞いただけで震え上がった。そのような茨城童子だが、ある時、西の方の国から茨城童子を征伐に来るという噂が伝わってきた。それを聞いた茨城童子は、すっかり驚いて、裏の方にある三角山を飛び越えて何れかへ逃げ去ってしまった。その時、腰に下げた巾着袋が邪魔だと放り投げた。はずみで巾着の根締めは萬福寺の辺りまで飛んできて、畑にめり込んだのだ。一一〇センチ角もある大きな根締めは、今でも萬福寺のそばの畑に眠っている。(石岡の民話より) 民話に出てくる巾着石は、茨城廃寺の五重塔の露盤(塔の一番上で方形の屋根を押さえ、飾りの相輪を通す穴が開いている石)である。 まさに、畑に突きささっているように置かれてあります。個人の地主の畑の中ですので荒らすことのないようにと願いました。 E「茨城」発祥の地 きんちゃく石を後にして、ばらき台交差点に戻り、右に進む。スーパーの駐車場を通り越しますと左側に、茨城発祥の地を説明する看板があります。しかし、残念ながら文字は風雪に曝されて判読が困難です。 「茨城」と言う地名の発祥の地は、石岡市茨城付近といわれている。その由来について常陸国風土記(七一三年、元明天皇の詔に基づいて土地の伝承、名前の由来、気候や地形等、その土地の風土が記されたもので、藤原宇合(うまかい…藤原鎌足の孫)を中心として編さん完成させた)では次のように記されている。 太古の昔、西に紫の峰を望み、南に入海をひかえた平野に住む人々は、海の幸、山の幸に恵まれ、豊な暮らしを続けていた。ところが、この広野の中ほどに「山の佐伯」「野の佐伯」という土ぐもがいた。この土ぐもは、人々の住む、平野を荒らし回っていた。彼らは洞窟に住み、平和な暮らしを脅かしたと言う。この為、都から来た長官、黒坂の命(くろさかのみこと)が、この土ぐもを退治しようと計略を巡らし、彼等が穴を出て、山野にいるときを見計らって野の茨(野ばら、からたち等棘のある低木の総称)を集め、穴の入口に立てて塞いでしまった。黒坂の命は、騎馬の兵士達を差し向け、激しく追ったところ、いつものように身軽に走って、穴の中に潜りこもうとして、茨に突き当たり、ひっかかったりして、茨の棘が体に突き刺さって傷を負い、その為病気になったり、死んだりして、とうとう滅亡してしまったという。 このように、土ぐもを茨によって退治したことから茨城という地名が残った。 この伝説から考えると、茨城県の県花はバラの花。納得できます。 F十一面観音堂
今月は、ここまで。来月は茨城廃寺礎石から出発し、ご紹介いたします。 (参考資料) 「貝地の昔話」貝地町公民館落成記念誌 「石岡の歴史と文化」石岡市歴史ボランティアの会編 美味! 若みどり (ちえこ) |
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