先月(ふるさと風、39号)より、常陸国風土記を歩く会の皆さんへのご案内は、染谷地区に入りました。今回は(22)染谷鹿島神社、(23)金山池、(24)波付岩をご紹介しましょう。 先ず、染谷地区について「石岡市史(上)」と「石岡の地名」を参考にしながらご紹介します。 長い幕府政治が終わりを告げ明治維新を迎えた、明治二年に府中平村は、石岡町と改称されました。六年後の明治八年には茨城県が成立。そして明治二十二年には市町村制実施によって、石岡、高浜に役場が開設され、石川村と井関村は合併して関川村となり、染谷と村上の二村は合併して石岡町に編入された。 昭和に入り、戦争という悲しく不幸な出来事を乗り越え、昭和二十八年には石岡町に高浜町を編入し、翌年、昭和二十九年、三村、関川両村も編入され石岡市が誕生しました。 明治二十二年の「町村制」によって石岡町に編入された染谷地区は、元禄年間まで府中領の内、のち旗本・皆川氏の知行所となる。 昭和三十五年の深谷重雄「石岡府中部落地名考證」によりますと、日本地名大辞書に依り国府の地及び城下の地を研べてみると、国府及城下より遠くない所に羽鳥、服織、調布等の地がある。布を織った所や又其の附近に布を染めた地があるものであると言う。 布を染めることを業としたこの地の染谷も布を染めた地であって其の名が出来た、遠くない所に羽鳥と言う地もある。この部落に高野川と言う川(龍神山と波付岩の中間の斜面に源を発し、波付岩東麓の金山池を経て南流し染谷と粟田の中間を流れて恋瀬川に流入する)がある。昔は村上の里に染屋(コウヤ…染め物屋)がありこの川に来て巾を漂したと傳う、後にこの人達この部落に移り住む。この地、恋瀬川流域に添え耕地が多いので藍を作り染め物を業とし其の業栄え大部落となる。事実當部落は明治末期まで藍を造っていた。この地亦傳説多し。 この記述に大変興味が湧き、染谷地区に住む方、教育委員会の方、何人かにお尋ねしましたが、現在のところ、染め物に関しての地名であったとの答えは得ることができませんでした。これからも折にふれ、染谷名について、特に染谷地区にお住まいの方で、お話し頂ける方にお会いしたいと願っております。
次回は、常陸風土記の丘、園内をご紹介したいと思います。 ・いのち鳴き果たして 蝉ひとり
ちえこ
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