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歴史ガイドに同行して(12)      兼平ちえこ  (2009.7)

 

 背をかけっこの平成っ子

 舟塚山古墳は笑む      ちえこ

 

 4月、5月、6月の常陸風土記の丘は6年生の学習見学で大変賑わいます。

 つくば市、筑西市、行方市、鉾田市、阿見町、那珂市等々から、年々、小学生の見学が多くなっているように感じます。声張り上げて、小学生との触れ合いを楽しみながら、歴史を学ぶ一助になればと力が入ります。

 「百聞は一見に如かず」と先生方にも喜んで頂いています。最近は風土記の丘に加えて、県内最大の大きさを誇る舟塚山古墳への関心も深まって見学コースに加える学校も多くなりました。国指定史跡でありながら自由に古墳上に立つことが出来、約千五百年前に築造されたといわれる古墳上での子供達は想像豊かに、目を輝かせてくれます。こんな中で少し気になります事があります。地元市内の6年生の見学にお会いしたことがありません。誇れる郷土、郷土愛が育まれますように、地元の小学生の皆さんのお出でもお待ちしています。

 さて今回の「霞ヶ浦、常陸国風土記を歩く会」の皆さんへのご案内は、皆さんの歩くコースには入っていなかった指定文化財となっている常陸国分尼寺と鹿の子C遺跡を加えさせて頂き、特別編としてご紹介しましょう。

  ○常陸国分尼寺跡

 昭和27年3月29日国指定特別史跡に指定。所在地、若松三丁目。国分増寺より北西500メートルの所に(府中小学校の裏側)に存在する。国分増寺、国分尼寺は天平十三年(七四一)聖武天皇の勅願により、鎮護国家を祈るため、国ごとに(六十六ヶ所)置かれた寺院である。国分尼寺は、法華滅罪之寺と称し、法華経の功徳により、未来成仏を祈願したものである。常陸国分尼寺は、一直線上に中門跡、金堂跡、講堂跡の礎石群が基壇上にあって保存され、全国的に見ても極めて貴重な遺跡である。昭和44年より三回にわたっての発掘調査で出土した遺物の中には、瓦類や土器などがあるが、土器の中で「法華」の墨書銘のある土師器(はじき)(昭和53年8月23日市指定文化財)が出土しており、法華滅罪之寺を証明する資料となっている。(常陸風土記の丘・資料館に展示されている)

 面積3万平方メートル、4月には桜の花のピンク色に包まれ、現在は史跡公園として親しまれています。  

 ・ 伝説「尼寺のときめき」(羽鳥屋菓子店様しおりより)

 それは千年も昔の出来事。満月の夜が近づくと国分寺の比丘尼(びくに)たちはいつもそわそわしておった。僧都(そうず)様の寝静まったころ、尼寺の食堂(じきどう)に集まった若い比丘尼は、廻廊の外でフクロウの鳴くのを待った。ホー、ホーという声がすると、土塀の外から布の丸い包みがポーンと投げこまれた。

 若い比丘尼がそれを拾い、中身を小鉢に移してから、布を投げかえす。月明かりに照らされた美しい比丘尼は、小鉢の中の手紙だけをとってそっと胸元にはさんだ。

 「ほら、今宵も《ときめき》が届きましたわ」と彼女は、まわりの比丘尼たちに小鉢の菓子をくばった。全員がいつくしむようにその菓子を食べる。部屋の中に、うっすらと酒の香がただよった。虫の鳴き声に交じって、彼女たちのヒソヒソ話が聞こえてくる。

 ふるさと、家族、そして恋の話と、おしゃべりはつきることがない。

 月が低くなったころ、若い比丘尼は手紙を開いた。府中の若者からの手紙には、いつも彼女への恋心がつづられていた。ところがその晩にかぎって内容は違っていた。

将門の大軍が攻めてくる。町はすべて焼かれる。十七夜までに、逃げなさい

 はたして、将門は手紙どおりに襲ってきた。僧侶は兵士に命ごいをし、役人は泥の上にひざまづいた。尼寺も、同じように焼かれたが寺の仏像や金銀は、《ごき洗いの池》へ前もって沈められた。尼寺に残ったものは、おびただしい焼け瓦と礎石だけであった。数年して、若い男女が草だらけの尼寺ヶ原を訪れ、歌をよんだ。

 尼寺ヶ原 石見に来れば 道もなし

      足にまかせて 尋ねこそすれ

 満月の夜のあの《尼寺のときめき》を知る者は、もう誰もいない。  

・ 伝説・尼寺のときめきの中の《ごき洗い》について…

(参考資料・ワクワクふるさと紀行「いしおか100物語」)

 かつて国分尼寺跡の付近に「ごき洗い」と呼ばれるややくぼんだ畑地がありました。「ごき」とは、昔、木製の食器類をそう呼んでおり、「御器」と書きます。台所に出没するあのおぞましいゴキブリのゴキは、この御器が語源だそうで、食器などに集まってくる虫だからゴキブリとよばれるようになったとか。

 ごき洗いは、その昔国分尼寺があった時代には池になっていて、食器などを洗った場所でした。今でもごき洗いの地中には、黄金が眠っているのだと伝えられているそうです。

 江戸時代、このごき洗いを掘ろうとした百姓が、崩れ落ちた土の下敷きになって死んでしまったといいます。

 くわばら、くわばら。見学の皆さんは、どうか黄金を掘りあてようなどとはお考えになりませぬように・・・。

  

 ○鹿の子C遺跡

 所在地、鹿の子一丁目。

 地下の正倉院といわれた鹿の子C遺跡は日本道路公団による常磐自動車道建設に伴う記録保存のため、昭和五十四年十一月から昭和五十七年二月までの間に発掘調査された。その結果、奈良時代の終わりから平安時代初めにかけての特殊な性格を持つ遺跡であることが判明した。特に鉄、銅製品を製作する工房跡が極めて注目に値するものである。農耕用具や武器、武具が出土したことから、当時の社会的背景として蝦夷侵略のための前線基地であると考えられたり、国衙に供給する製品を作るための付属工房であるとも考えられた。

 一方、この遺跡の名を世に広めたものは、漆紙文書《平成五年三月二十五日、市指定有形文化財(考古資料)》である。

 本遺跡から出土した漆紙文書は半月状の形で赤外線カメラによる判読で初めて当時の行政文書であることが判明した。この文書は漆を貯蔵した容器の蓋紙として使用されたもので、そのため円形、半月形として残存し、今に伝わった。この文書には当時の戸籍や稲を貸し付けた時の帳簿などが克明に書かれていた。この戸籍などから当時の常陸国には二十二万人から二十四万人の人口があったと推定された。

 現在、鹿の子遺跡の主要部分は常磐自動車道となって消え果ててしまいましたが、主要部分となっているあたりに石岡市教育委員会の案内板が建てられてあります。行き方として、石岡駅方面から若松町交差点をガソリンスタンド左にして入っていき、間もなく右側に府中小学校、そして国分尼寺入口を過ぎまして数十メートルで常磐自動車道を下にしての交差点で案内板と出会う事が出来ます。尚、常陸風土記の丘の資料館には、鹿の子遺跡から出土した鉄、銅製品、土器等の遺物、そして、貴重な漆紙文書はレプリカとして展示されてあります。また発掘された建物の跡である住居ブロック、工房ブロック(鉄品や銅製品を作った作業場)、官衙ブロック(役所的機能を持つ所)等の一部分が復元されてあります。

 どうぞ、常磐自動車道あたり、出土品、復元された家屋等と合わせ、見学し、平安びとの偉業に思いをはせてみては如何でしょうか。

        参考資料・いしおかの歴史と文化

石岡市歴史ボランティアの会編

 

 お大事に! 日々草 笑顔振って

   ちえこ