○常陸国分尼寺跡
昭和27年3月29日国指定特別史跡に指定。所在地、若松三丁目。国分増寺より北西500メートルの所に(府中小学校の裏側)に存在する。国分増寺、国分尼寺は天平十三年(七四一)聖武天皇の勅願により、鎮護国家を祈るため、国ごとに(六十六ヶ所)置かれた寺院である。国分尼寺は、法華滅罪之寺と称し、法華経の功徳により、未来成仏を祈願したものである。常陸国分尼寺は、一直線上に中門跡、金堂跡、講堂跡の礎石群が基壇上にあって保存され、全国的に見ても極めて貴重な遺跡である。昭和44年より三回にわたっての発掘調査で出土した遺物の中には、瓦類や土器などがあるが、土器の中で「法華」の墨書銘のある土師器(はじき)(昭和53年8月23日市指定文化財)が出土しており、法華滅罪之寺を証明する資料となっている。(常陸風土記の丘・資料館に展示されている)
面積3万平方メートル、4月には桜の花のピンク色に包まれ、現在は史跡公園として親しまれています。
・ 伝説「尼寺のときめき」(羽鳥屋菓子店様しおりより)
それは千年も昔の出来事。満月の夜が近づくと国分寺の比丘尼(びくに)たちはいつもそわそわしておった。僧都(そうず)様の寝静まったころ、尼寺の食堂(じきどう)に集まった若い比丘尼は、廻廊の外でフクロウの鳴くのを待った。ホー、ホーという声がすると、土塀の外から布の丸い包みがポーンと投げこまれた。
若い比丘尼がそれを拾い、中身を小鉢に移してから、布を投げかえす。月明かりに照らされた美しい比丘尼は、小鉢の中の手紙だけをとってそっと胸元にはさんだ。
「ほら、今宵も《ときめき》が届きましたわ」と彼女は、まわりの比丘尼たちに小鉢の菓子をくばった。全員がいつくしむようにその菓子を食べる。部屋の中に、うっすらと酒の香がただよった。虫の鳴き声に交じって、彼女たちのヒソヒソ話が聞こえてくる。
ふるさと、家族、そして恋の話と、おしゃべりはつきることがない。
月が低くなったころ、若い比丘尼は手紙を開いた。府中の若者からの手紙には、いつも彼女への恋心がつづられていた。ところがその晩にかぎって内容は違っていた。
将門の大軍が攻めてくる。町はすべて焼かれる。十七夜までに、逃げなさい
はたして、将門は手紙どおりに襲ってきた。僧侶は兵士に命ごいをし、役人は泥の上にひざまづいた。尼寺も、同じように焼かれたが寺の仏像や金銀は、《ごき洗いの池》へ前もって沈められた。尼寺に残ったものは、おびただしい焼け瓦と礎石だけであった。数年して、若い男女が草だらけの尼寺ヶ原を訪れ、歌をよんだ。
尼寺ヶ原 石見に来れば 道もなし
足にまかせて 尋ねこそすれ
満月の夜のあの《尼寺のときめき》を知る者は、もう誰もいない。
・ 伝説・尼寺のときめきの中の《ごき洗い》について…
(参考資料・ワクワクふるさと紀行「いしおか100物語」)
かつて国分尼寺跡の付近に「ごき洗い」と呼ばれるややくぼんだ畑地がありました。「ごき」とは、昔、木製の食器類をそう呼んでおり、「御器」と書きます。台所に出没するあのおぞましいゴキブリのゴキは、この御器が語源だそうで、食器などに集まってくる虫だからゴキブリとよばれるようになったとか。
ごき洗いは、その昔国分尼寺があった時代には池になっていて、食器などを洗った場所でした。今でもごき洗いの地中には、黄金が眠っているのだと伝えられているそうです。
江戸時代、このごき洗いを掘ろうとした百姓が、崩れ落ちた土の下敷きになって死んでしまったといいます。
くわばら、くわばら。見学の皆さんは、どうか黄金を掘りあてようなどとはお考えになりませぬように・・・。
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