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歴史ガイドに同行して(11-3)      兼平ちえこ  (2009.6)

 今年で16目の石岡ふれあいウオークラリー大会(石岡市中央図書館前イベント広場からスタート)が、5月24日(日)に行われました。天気予報も少し外れ、小雨の降ったり止んだりの中、予報のせいでしょうか、例年より参加者が少ないように感じました。

 旧石岡市内を歴史コースと健康コースに分かれ2時間かけてのラリーです。寺社巡りが中心で、歴史コースはその時の寺社のご朱印を頂ける事も魅力の一つです。

 三代の家族連れ、中学生同志、中高年のご婦人同志、「小さな手の合掌姿」「石岡って寺社が多いんですね」、楽しみと健康を得ながら、ご先祖さま、そして先人達への感謝の気持ちもお伝えしながら、石岡の歴史を肌で感じられる大会です。どうぞ来年こそご参加をお待ちしています。賞品もどっさりです。  

 さて今回の「霞ヶ浦・常陸国風土記を歩く」会の皆さんへのご案内は、4月、5月より続いていますQ常陸国分増寺跡内の最終となります。中門跡の仁王門、都都逸坊扇歌堂についてご紹介しましょう。

  ・中門跡の仁王門

 天平十二年(七四一)、聖武天皇の勅願によって建立された全国六十六ヶ所の国分寺の中で常陸国分寺は、八世紀後半には建立されたと推定されています。建立以来百年間位は、すこぶる盛大であったそうですが、天平の国分寺は律令制度の衰退に伴い、国府の力の喪失や、加えるに天慶二年(九三九)、平将門の乱によって国府が焼かれ、鎌倉時代には廃墟と化してしまいました。その後一三四六年大掾詮国が国府跡に府中城を築いて本拠としました。当時は、常陸太田に佐竹氏、水戸に江戸氏、石岡に大掾氏と群雄が割拠していました。こうして中世の府中に君臨してきた大掾氏は天正十八年(一五九〇)に佐竹義宣の府中城攻略によって滅ぼされ府中の町は廃墟に帰し、中世の文化と国分寺は消えていった。

 常陸国分寺時代の中門跡には元亀元年(一五七〇)起工、天正二年(一五七四)完成、宝暦(一七五一〜一七六三)年間に修理されました「仁王門」がありました。しかし、明治四十一年(一九〇八)四月二十二日の町内大火で焼失してしまい礎石と敷石を残すのみであった。この「仁王門」には有名な名工春日作の金剛力士像があったが、仁王の頭部と手、足を搬出したのみでした。

 国分寺は幾度か火災にあいながら、復興の道を繰り返してきましたが明治四十一年の大火以後は仁王門の再興の動きはなく、ただ石畳と仁王像の一部が残るだけだった。

  ・仁王門伝説

 それは四百年以上も昔の出来事だった。

 「コマ売りの佐助が夜更けになると、国分寺の仁王門で何かやってるぞ」といううわさが府中の商人の間で広がっておった。秋田から来た佐助は薬師堂の門前で商いをするまじめな青年であった。

 カッと目を見開いた呵吽一対の仁王様は身の丈およそ六メートル。この仁王門のどこかに、かつて常陸国を治めていた大掾氏の秘宝のありかが、梵字で記されているという。しかし、それを知っているのは、すでに滅ぼされた大掾氏と薬師堂の和尚だけだった。

 ある夜、この秘宝を知ってか知らずか、この梵字を写していたコマ売りの佐助は和尚に見つかり「あっ!」と声をあげて逃げていった。その後、佐助の姿を見た者は誰もいない。 

 如何でしょうか、大掾氏の秘宝のありかと佐助の行方も気になるところでございますね。

 戦乱の世に、門前には野菜、魚、雑貨などを売る朝市の風景、なぜかほっとする人々の生活も伺うことが出来ました。

 

 

 

  ・都々一坊扇歌堂

 市指定有形文化財(建造物)、昭和五十三年九月十一日指定。

 民衆の文芸詩、心の唄である都々逸の創始者、初代都々一坊扇歌の霊を祀り永く顕彰するため昭和六年市内の有志が建立期成立会を結成し、全国の芸能人及び都々逸愛好者、俚謡作家より浄財を集め昭和八年四月八日完成、盛大に入仏式が行われた。堂内には当時笠間市在住の横山一雅氏の刻まれた都々一坊扇歌の木像が安置されてあります。

 都々一坊扇歌は文化元年(一八〇四)、医師の岡玄作の二男として常陸太田市磯辺に生まれ、幼名子之松(ねのまつ)のちに福次郎と改めました。六歳の時、痘瘡にかかり失明同然となりましたが、幼少から音曲が好きで十四歳の時、養子先から飛び出し、五、六年間唄行脚の放浪生活を続けました。やがて古三味線を抱えて、故郷に戻り、叔父の医者の家の居候となったが、日本一の芸人になろうという決意固く、「藪医者の子が」と叔父に反対されたが、

  親が藪なら 私も藪よ

    藪にうぐいす 啼くわいな

 と返歌して、二十歳の時、江戸に出て船遊亭扇橋の弟子となり、その後寄席芸人として修行が続き天保九年(一八三八)一枚看板を許され、当時流行していた「よしこの節」「いたこ節」などを工夫して新しく都々逸節を作り、都々一坊扇歌と名のりました。

  たんと売れても 売れない日でも 

    同じ機嫌の 風車

 扇歌は高座にあたって聴衆からの謎掛けを即座に解いてしまう頭の回転の速さが江戸庶民の評判になりました。しかし、当時の政治や社会を批判した一句、

  上は金 下は杭なし 吾妻橋

 で、江戸追放の身となってしまいました。

 江戸を追放された扇歌は姉の嫁ぎ先、府中香丸町の酒井長五郎さん宅に身を寄せ、一世を風靡した扇歌も病に勝てず、一八五二年四十八歳で生涯を閉じました。辞世の歌、

  今日の旅 花か紅葉か 知らないけれど

    風に吹かれて 行くわいな

 法名・都々一坊賢叟清信士。

 扇歌のお墓は、現在の国分寺本堂の裏側にあります。尚、都々逸作詞については俚謡として目にすることが出来ますが、都々逸節としてはあまり馴染みが感じられないのは私だけかもしれませんが、是非愛好者の方々の公演を望んでおります。

 

 以上で国分増寺跡内のご案内は終了しました。来月は国分尼寺跡、鹿のC遺跡をご案内したいと思います。

        参考資料 いしおか昭和の肖像

                常陸国分寺の由来

                常陸國分寺たまげた伝説

 

 四苦八苦(しっくはっく) (もの)書きなれど

   終わればホッと 笑みの一息(おと)

                (ちえこ)