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歴史ガイドに同行して(11-2)      兼平ちえこ  (2009.5)

  昨年の二〇〇八年四月、五月、六月(各月一回)に渡って「霞ヶ浦・常陸国風土記を歩く」会の皆さんへのご案内に同行してのご紹介も今月より二年目に入りました。

 健康増進と歴史探求を兼ねての豊かな人生を送られている皆さんに熱いエールをお送りしながら、そして多くの方々に「歴史の里いしおか」に出会ってほしいと願いつつ、今回は前月のQ常陸国分増寺跡内でご案内できなかった旧千手院山門、国分寺鐘伝説についてご紹介しましょう。

  ・旧千手院山門

 市指定有形文化財(建造物)昭和五三年九月指定。千手院は菩堤山来高寺と称し、国分寺の東方隣接の地にあった。弘仁九年(八一八)行基菩薩の法弟、行円上人によって開基、以後千手院住職、十一世心宥上人が、建長四年(一二五三)の没するまで続いたと伝えられる。その後の記録はないが、天正元年(一五七三)に、京都東寺の禅我大僧正の法弟、朝賀上人によって中興されたといわれる。朱印地十石、末寺二ヶ寺、門徒二一ヶ寺、又門徒二ヶ寺、これら千手院末の寺院は、その大部分が府中(石岡)の町にあり、人々の信仰を集めていましたが明治初期の廃仏毀釈運動や本山の末寺統合策等により、その多くが廃寺となっていった。こうして千手院来高寺も大正八年(一九一九)、現在の国分寺と合併して廃寺となり、現在ではこの山門が国分寺境内に残るのみである。その質素な趣のある瓦葺きの旧千手院山門には蟇股(かえるまた)といわれる部分に、珍しい彫刻が施されています。一見すると見る人を恐怖させるこの情景には、全く逆の意味が隠されています。恐ろしい鷲は慈悲深い観音様の化身であり、弱弱しい猿は煩悩に身を焦がした人間の姿を現しているのです。欲におぼれて奈落の底に転げ落ちようとする猿を鷲に早変わりした観音様がすくい上げるというまさに救済の図なのだそうです。

 茨城県文化財保護審議会員として重責を果たされた建築文化振興研究所の一色史彦先生は、昭和六十三年に、山門の修理工事の監理を依頼され、その一年前にこの恐ろしい情景の彫刻が示している本来の意味を知ったそうです。(「茨城の古社寺遍路・上」一色史彦著・崙書房出版)またこの時の修復で門建立の年号が判明しました。寛保三年(一七四三)、国分寺の僧侶、深恵がこの門を建て、明和四年(一七六七)に弟子の宥恵が瓦葺きに改めたという内容の文字が屋根の小屋組に墨で残されていたのです。

 

 どうぞ深緑に包まれた境内を散策しながらご観照のことお薦めいたします。

 

 ・国分寺鐘伝説

 仁明という天皇の承和という年号の最初の年だと書いている書物があるそうで、ある天気のよい日、子生(こなじ)の浦(旧鹿島郡旭村子生)という海の上に、ぽっかり二口の釣鐘が浮んだという。それを見つけた漁師は驚き、「こんな重い釣鐘が浮ぶはずがねい、それも二つもよ」としばらく考えた漁師は「そうだ、龍宮の女神さまが、何処ぞのお寺に寄進なさるにちがいない」と気づき、浜の漁師仲間を全部呼び集め、総がかりで釣鐘を浜辺に引き上げた。さて、寄進先のお寺はどこの寺だろうと皆で考えた。すると一人の漁師が「そうだ府中の国分寺だ」と叫んだ。大勢の漁師たちも「そうだ、そうだ」と府中の国分寺まで運ぶことになり、太い縄をなって二つの釣鐘に巻きつけ、大勢で引き出した。随分と骨がおれた。一日、二日と釣鐘引きが続き、旭村の中間の大きな原にやっとたどり着いた時は、すでに七日ほどたっていた。そこでこの原を「七日っ原」と呼ぶようになり、八日目には旭村田崎の堤にたどりつき、ひと休みした。その堤のある所を「八日堤」と名がつけられた。八日堤からは二台の車に積んで運ぶことになり、重い車を引きだしたが、田崎地内の所に差しかかると突然車の心棒が折れてしまった。そこでこの橋を「こみ折れ橋」と呼ぶようになり、今でもこれらの地名が残っているという。このようにしてやっとの事で、府中の国分寺につき、目出たく雄鐘、雌鐘の二口の釣鐘が鐘楼に吊り下げられたという。

 ところがある夜、この釣鐘に目をつけていた大力の大泥棒が鐘楼から釣鐘をはずし、これを背負って、高浜街道を通り、霞ケ浦の岸辺にたどりつき、その釣鐘を舟にのせて沖に向かって漕ぎ出した。舟が三又沖に(霞ヶ浦大橋辺り)の手前までくると、雷も鳴りだし、大嵐になり、さすがの大泥棒もさきに進めずどうしようと思案していると、舟に積んだ釣鐘が突然「国分寺、雄鐘恋いしやボーン」と鳴りだした。これには大泥棒も驚き「この急な時化ようは、きっと釣鐘を盗んだ罰だ」と気がついた大泥棒は恐ろしくなり、釣鐘を三又沖めがけてほうりこんで、舟を漕ぎ去ったという。それ以来、三又沖に沈んだ雌鐘は明けと暮れには「国分寺、雄鐘恋いしやボーン」と鳴るという。そして毎日、米つぶ一粒分だけ岸によさってくるが、波や時化のために引きもどされて今だに岸に着けないでいるという。この伝説はJR線、石岡駅下りホームに壁画となっています。

 また、盗まれた釣鐘については、寛永年間(一六二四〜一六四三)に、当時、府中領主の皆川山城守が表川(恋瀬川)の両堤を構築するとき、人足の懸け引きを合図するため、国分寺の雌鐘を使用し、寛永十五年、堤は完成したが、鐘を寺に返さずそのままにして置いたため、盗難にあったのだという記述もあります。

 そして「常陸國分寺たまげた伝説」の中の「禁断のつりがね」と題して、その昔、国分寺には雌雄一対の名鐘があった。ところが江戸時代の初め、雌鐘が盗まれ舟で運ぶ途中の嵐で、三又沖に沈んでしまった。今から三百年ほど昔のこと。その話を聞いた光圀公は釣鐘をとりもどそうと、力自慢の数人の男を集め、娘たちの髪で太い毛綱をより、湖面に舟を出した。やっと水面にあらわれた釣鐘のなんとも物悲しい姿に、ハッと息をのんだ瞬間、結ばれた毛綱がほどけて、釣鐘はふたたび水中へと沈んでしまった。それからはたたりを恐れてか、釣鐘に触れるものはいなかった。

 最後に国分寺の梵鐘は「仁明天皇御宇、承和元年甲寅三月雌雄二口、東海より出現」と伝えられているが、遠く海を渡って、百済から来たものらしい。直径一・〇六メートル、高さ一・七八メートル、厚さ一〇・六センチ、重量一三一キロ。雄鐘は鐘楼が痛んだため、仁王門に吊っておいたが、明治四十一年の大火に仁王門と運命を共にしてしまいました。

 

 

 如何でしたか、色々な伝説として語り伝えられていますが、皆さんの心の中でありし日の釣鐘の音色の余韻を偲んで下さい。また次回も国分寺境内周辺のご案内をご紹介いたします。

参考資料・石岡市史()、いしおか100物語

 

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