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歴史ガイドに同行して(11)      兼平ちえこ  (2009.4)

  六世紀、日本に伝わった仏教は、推古天皇・聖徳太子の時代にその積極的な普及政策により全国に広まった。

八世紀前半、日本国内は、内乱や凶作に加えて疫病がはやり、藤原氏(藤原光明子…聖武天皇の皇后、光明皇后となる…の兄達、前常陸国守藤原宇合ら四兄弟があいついで病没)等、有力貴族を始め多くの人々が亡くなった。

 こうした混乱した社会を仏の力で救ってもらおうと、国土安泰、万民息災を祈願して天平十三年(七四一)、聖武天皇は、国分寺創設の詔を下され、全国六十六ヶ所に国分増寺、国分尼寺の二寺が国ごとに建立されることになった。全国六十六ヶ所の中で常陸国は大国に区分され、国府が置かれた石岡に天平十三年の建立の詔が出た後、ほどなく増寺、尼寺が成立したとみられる。

 両寺とも、すでに古代において兵火に焼かれ、その後中世に再建されてからも兵火で焼失するなど、当初の姿を伝える建築物は皆無だが建物の礎石の保存状況が良好であることから二寺とも、昭和二十七年三月(一九五二)に国の特別史跡に指定された。

 今回の「常陸国風土記を歩く会の皆さんへのご案内」は、Q常陸国分増寺跡についてご紹介しましょう。

 

 所在地、石岡市府中五丁目一番。

常磐線石岡駅の西北一キロメートル。東側に県道石岡〜笠間街道が通り、市街地の北端に位置している。現在跡地には、真言宗智山派、浄瑠璃山東方院国分寺があります(大正中期末寺千手院を合併、再興した)。本尊は、薬師如来。その境内に創建当時の礎石等の遺構に、ありし日の栄華の世を偲ぶことが出来ます。

 常陸国分増寺の正しくは金光明四天王護国之寺と称し、金字金光明最勝王経一部を安置した七重塔を設け、常住の僧二十名と最勝王経十部を置いた。寺院の財政は封古(ふこ…古代、俸禄の対象となった戸)五十戸、水田十町歩、十ヘクタールの作物によって賄われた。

 南大門、中門の各大門を構え、廻廊は中門の両側から東西にのび、堂塔伽藍は仏教芸術の粋を集めたものであった

 

 昭和四十四年からの調査を始めとして、昭和五十二年、次いで昭和五十六年から二次にわたる発掘調査で金堂、講堂の規模が確認され寺域も大きいことが判明した。寺院全体は約東西二七〇メートル、南北二四〇メートルの規模で全国の国分寺の中では大きい方であった。また発掘調査で出土した遺物は瓦が主体であるが、その中でも創建瓦(複弁十葉蓮華文軒丸瓦…ふくべんじゅうようれんげぶんのきまるかわら)は、平城京羅城門跡で発見された軒丸瓦と同系の模様であることが注目されました。これは国分寺建立に際し、当時の政府が瓦工の派遣などを含む技術指導をしたことを物語っている。

 これらの発掘された瓦等遺物は常陸風土記の丘公園内の展示室と石岡市民俗資料館に展示されています。

 

金堂跡

講堂跡

 現在の国分寺境内に七重塔心礎と思われる礎石が柵の中に安置されている。石の寸法は直径約二メートル、短径約一・八メートル、枘穴(ほぞあな)中央径五十二・八センチメートルである。

 昭和二十七年一月、石岡駅から水戸街道に通じる産業道路開設の為の工事中に妨げとなった大石を取払うことになった。ところがこの石は一二〇〇年前に建立された常陸国分寺の七重塔の塔心礎であることが確認され、六日がかりでコロで元の国分増寺跡に収まることになりました。(写真集、いしおか昭和の肖像に運搬の様子の写真が掲載されている)

 近年の研究では、今まで判明していなかった七重塔の位置が、寺域東側に推定されている。

七重塔礎石

 

  四月八日、花まつり。国分寺境内は、お釈迦さまのお誕生をお祝いして、桜の花と人の華で歓喜の広場となる事でしょう。是非ありし日の国分増寺の境内(寺の東側と推定されている七重塔は NTTの白と赤の塔のあたりとご案内している)を思い浮かべながら甘茶を頂戴してみては如何でしょうか。

 尚、現在の国分寺内の薬師堂は、筑波山を守るため東西南北四ヶ所に建立された「筑波四面薬師」、旧八郷町の菖蒲沢薬師堂、旧真壁町の薬王院、旧新治村の東城寺、そして旧八郷町十三塚の山寺(廃寺)のうちの十三塚山寺の山中薬師を(前の本堂は明治四十一年の大火で焼失)明治四十三年(一九一〇)に移したものだそうです。

 

 その他、国分寺境内でのご案内が残っておりますが(千手院山門の彫刻について、国分寺鐘伝説、都々一坊扇歌堂、中門跡の仁王門)次回とさせて頂きます。

  参考資料 石岡市史(上)・ 国分寺の由来

 

・ 一二〇〇余年の世 黙して語る 塔心礎

・ ヒマラヤユキノシタ ピンクの花咲く丘

・ ちょっと待とうと 赤い息吹の桜さん

                               ちえこ