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歴史ガイドに同行して(10)      兼平ちえこ  (2009.3)

  暖かい励ましを背に今回の「常陸国風土記を歩く会の皆さんへのご案内」は、O青屋神社と青屋祭り、P若宮八幡宮です。

 

 O青屋神社と青屋祭

 総社文書の正安二年(一三〇〇)に国府から西方の地に遙拝所が設けられ、その後旧石岡市役所の西の隣接地が斎場にあてられて、小祠が建てられ「青屋神社」として現存している。これは明治中期のことで、その以前は国府構内に社地として東西二十二メートル、南北九十一メートルの社殿、工作物はなく祭事毎に青茅屋の斎場が設けられたものである。国府官人の子孫の税所家が明治年間まで伝統のまま祭祀奉幣の典礼をつづけて来た。

 中世の青屋祭は「常陸遺文」の記録によれば、府中惣社の宮祭のひとつとして六月二十一日に高浜神社、大洗磯崎神社、鹿島神社などの津で、霞ケ浦と鹿島灘の航海の安全と水産物の豊穣を神に祈願するために行われた。また青屋祭のとき、舟塚山古墳を青野喪山(あおののもやま)と呼び幣帛(へいはく)を供している。この鎮魂神事によって霞ケ浦の安全を祈ったのであろう。

 近世の青屋祭神事は「常府古跡案内しるべ」によれば、青屋の馬場(乗馬法を練習する所)と呼ばれるこの辺りで行われた。六月二十日の深夜、二人の者が青ススキ、細竹で青屋をつくる。神拝は六月二十一日の午後四時から始まり、公家装束の税所氏と小仁所氏が侍姿の大勢の供をつれて参拝する。この間、馬場では神馬を走らせた。神拝が終わると税所氏と小仁所氏は高浜に移り、高浜神社に参拝した。

 現在は、町内氏子会七十人によって七月二十一日頃に行われ、なかでも妊婦さんの参拝がありますと安産のおしるしとして麻の紐(十センチ位)と小さな四角のお餅を頂くそうです。その麻の紐で髪を結いお産に臨むということでした。又、「私は、子供に恵まれぬ親が熱心に青屋さまにお願いしたことで授かった者だと仰られる現在七十歳代の方のお話もお聞きすることが出来ました。

 ススキの箸で饂飩を頂いたりする直会は現在も行われているそうです。


青屋神社


高浜神社

 

  P若宮八幡宮

 鎮座地、石岡市若宮二丁目一番三号。祭神、息長足姫尊、誉田別尊、姫大神。

 

 若宮八幡神社本殿、市指定有形文化財(建造物)平成五年三月指定。神亀五年(七二八)九月に建立されたと伝えられる。永保二年(一〇八二)、八幡太郎義家が奥州征伐の折り、当社に朝敵退散を祈願し、応永二年(一三九五)太田道潅が参拝し、武運長久を祈願した。天正十八年(一五九〇)佐竹氏府中攻略の際に焼失した。寛永四年(一六二七)に皆川山城守が再建し、その後寛文五年(一六六五)に領主松平伊勢守が本殿、拝殿を修造、そして元文年間に別当欽長今が神社を改築して天下安泰を祈願した。

 以上の記録は安永二年(一七七三)別当義寛の記録である。このことは天台宗東耀寺末の若宮八幡寺の別当が八幡神社を管理していて明治二年の神仏習合禁止令で独立したものである。

 外観は拝殿に見える形式でありながら内部には宮殿を造り付けており、一棟で本殿と拝殿の機能を兼ね備えた社殿である。

 

 神門は四脚門形式でありながら扉を設けず後ろの間の左右を囲って随神門に似た造りとし、風神、雷神を祀っている。また前後の柱の形式を変えるといった珍しい手法も特徴である。

 現在、十月十日に行われている大祭には子供によります奉納相撲や芸能(主にカラオケ)大会、夕方六時より、石岡のおまつりでの若松町の山車が八幡太郎義家の人形とともに、おかめ、ひょっとこ、きつねの踊り手と境内はにぎやかさに包まれるそうです。

 

 


八幡宮入口の鳥居と神門


桜と若宮八幡宮

 今回は二社のご紹介となりました。

参考資料 石岡市史(上巻)・石岡の歴史と文化

 

やすめる義母九十半(くとせはん)の鼓動

初雪に逝きし義母のありがとう  ちえこ)