総社文書の正安二年(一三〇〇)に国府から西方の地に遙拝所が設けられ、その後旧石岡市役所の西の隣接地が斎場にあてられて、小祠が建てられ「青屋神社」として現存している。これは明治中期のことで、その以前は国府構内に社地として東西二十二メートル、南北九十一メートルの社殿、工作物はなく祭事毎に青茅屋の斎場が設けられたものである。国府官人の子孫の税所家が明治年間まで伝統のまま祭祀奉幣の典礼をつづけて来た。
中世の青屋祭は「常陸遺文」の記録によれば、府中惣社の宮祭のひとつとして六月二十一日に高浜神社、大洗磯崎神社、鹿島神社などの津で、霞ケ浦と鹿島灘の航海の安全と水産物の豊穣を神に祈願するために行われた。また青屋祭のとき、舟塚山古墳を青野喪山(あおののもやま)と呼び幣帛(へいはく)を供している。この鎮魂神事によって霞ケ浦の安全を祈ったのであろう。
近世の青屋祭神事は「常府古跡案内しるべ」によれば、青屋の馬場(乗馬法を練習する所)と呼ばれるこの辺りで行われた。六月二十日の深夜、二人の者が青ススキ、細竹で青屋をつくる。神拝は六月二十一日の午後四時から始まり、公家装束の税所氏と小仁所氏が侍姿の大勢の供をつれて参拝する。この間、馬場では神馬を走らせた。神拝が終わると税所氏と小仁所氏は高浜に移り、高浜神社に参拝した。
現在は、町内氏子会七十人によって七月二十一日頃に行われ、なかでも妊婦さんの参拝がありますと安産のおしるしとして麻の紐(十センチ位)と小さな四角のお餅を頂くそうです。その麻の紐で髪を結いお産に臨むということでした。又、「私は、子供に恵まれぬ親が熱心に青屋さまにお願いしたことで授かった者だと仰られる現在七十歳代の方のお話もお聞きすることが出来ました。
ススキの箸で饂飩を頂いたりする直会は現在も行われているそうです。
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