『常世の国に風が吹いたら 常世の国の女が微笑んだ』 脚本家の道を歩き始めるきっかけ、というか文章を書くきっかけになったのは、小学三年生の頃に書いた詩を誉められた事であった。以来、詩をズーッと書き続けている。 母親が俳句をやっていた事もあり、一行詩のような形式の詩も長く書き続け、文作の習作にもなっている。それで改めて思うのであるが、脚本家の構成というのは作詩に共通しているといえる。 詩と小説とは明らかにその様式が違う。長いとか短いの問題ではない。構成という視点での話である。 脚本には演劇、映画、テレビ、ラジオといったジャンルがあるが、構成の視点は類似している。勿論、映画と演劇では全く物語の組み立てや台詞の在り方が違う。しかし、構成の在り方というか視点は全く詩と等しいといえる。物語の発展、飛躍、そして省略の仕方はまさしく詩といっても過言ではない。 舞台のセリフは、それ自体が説明表現であるので理屈っぽかったりする。それに対して、映画のセリフは説明を嫌う。しかし、それはくクソ・リアリズムの世界か暗示的、象徴的な世界かの場の違いだけの問題である。 面白いのは、歌の作詞の世界には、映画・テレビの脚本家であったり、目指していた人が大勢いる。その代表は川内康範氏であり、阿久悠氏あろう。 そんな事を思っていたら、この会報にも少し詩を発表してみようかという気持ちになった。最近の若い人たちはあまり詩を書いたりしないようであるが、詩の飛躍や発展は心の分析に非常に有効であると思うのだが、何故書かなくなってしまったのだろうか。 文章を書くこともそうであるが、詩を詠い書くというのは、自分が一番勝手に居られて、他人に直接迷惑をかけないものであるから、大いに文作をお勧めしたいのだが…。
「僕は今」 僕は今 しっかりと死を創るために 一生懸命に生きています。 僕の生は 僕でなければできない死を求めて あるのです。 僕は今 誰よりも美しい死を創りたいと思っています。 そうです。 壮絶に生きることに尽くして バッタリと 美しく 芸術的に死を創りたいのです。 だから僕は 僕自身に哲学を問いかけて 自分一人で問答をしているのです。 これは言葉の遊びではありません。 今生きている僕の死を創るための 僕の生きている葛藤なのです。
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