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風に吹かれて(9-2)      白井啓治  (2009.2)

 『愉快人 愉快求めてぶらりぶらぶら』

 つい先達てのこと、久しぶりに文化的愉快に出会った。出会ったといっても新聞記事のことである。これを文化的愉快と言うかどうかは、極めて個人的な感性の問題であるが、実に愉快な記事であった。

それは朝日新聞に載ったこんな記事である。『うどんのルーツ日本にあり 伝承料理研究家・奥村さん新説 こつこつ調査三〇年』というものである。

 饂飩は、これまで中国のワンタンがその原型と言われてきたのだそうであるが、伝承料理研究家の奥村さんという方が三十年に及ぶ調査の結果、饂飩は、中国から伝わってきた切り麦から日本独特の食に進化してきて、固有の食文化となったのだそうである。

 一見地味で、どうでもよさそうな話ではあるが、とんでもない。日本人にとって、日本の食文化にとっては一大事な発見であると私は思っている。だから非常に愉快なのである。文化的愉快とはこうでなければいけないと思っている。

 石岡に越してきてもう十年以上が過ぎた。八郷町と合併して新しい石岡市となってますますこの地の良さが高まり、気にも入ってきた。常世の国と表されただけの地であると思う。

しかし、石岡に越してきて残念に思うことがある。この地域、うまい食材は豊富なのであるが、美味いものを喰わせてくれるところがないことである。特に美味い郷土料理というものがない。成り上がりの新興地さながらに地の深みを持たない味ばかりである。

 故立原正秋氏が、その作品の中に頻繁に、それこそ後ろから誰かに刺されるのではないかと心配するほど奈良と信州には美味い物がない、と書いていたが、この石岡という所はもっと酷い。食文化の発達していないところは、芸術性が豊かに育たない、と言われるがこの石岡を見ていると、その言葉はあたっていると思う。

石岡というよりは、常世の国と表されるこの地域全体が、肥沃で食材の宝庫であることをもてあましているかのように、食文化の熟成が貧しい。貧しすぎる。

ワカサギは霞ヶ浦から全国に広がっていったのであるが、その美味い名物料理となると他県に持っていかれてしまっている。長野県佐久の鯉は旨いと言うが霞ヶ浦で成魚になったものを持って行き冷水に痩せさせて佐久の鯉にしている。漬物の高菜も茨城産、夕張メロンも茨城産、京の水菜も茨城産。OEMで金は儲かるかも知れないが、この地の食文化には「美味い」という愉快は生まれ育ってこない。美味いものがないから芸術・文化の成熟がない。常世の国なの実に勿体ないことである。

 華々しさは必要ないが、確りとした芸術・文化の成熟の無い所には人は集まってこない。愉快がないのだから当然である。芸術・文化の根源は食であると私は思っている。

この常世の国というふるさとから若い人がどんどん居なくなっている。働く場所がないという。若い人いわくこの地には魅力がないという。そりゃあそうだろうと思う。美味いものがないのだから寄り付く人もいない。人が寄り付かなければ町が出来ない。町が出来なければ経済地域も生まれない。みんなみんな食い物の所為です。と、言ったらさぞかし反感を喰らうだろうが、反感をもたれることで美味い物が生まれたらバンザイなのだが、果たしてどんなものやら。

 この会報をスタートさせた時、悪口でも大声で叫べば、そのうちそれが自慢話になる、と言ってきたのであるがなかなか自慢になってくれない。まだまだ声が小さいのかなと思っているが、私も歳だ。休み休み叫ばないと少々疲れが出てくるというものである。しかし、そんなことを言って一休みしてしまうとそのままズーッと休んでしまいかねない。あと二年位は大声で叫ぶことを休んではいけないかなと勝手に決めて思っている。

 しかし、ちょっと待てよ。私は大声で悪口を叫んでいるつもりになっているが、実際には誰にも聞こえないぐらい小さな声なのかもしれないな。