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風に吹かれて(9-3)      白井啓治  (2009.3)

 

 『大きく恋の紡いで里娘の笑顔』

 二月二十二日、ことば座の今年第一回目の公演が終わった。我が百姓の師であるふたば自給農園の松山さんと畑仕事をしている時に出てきた、縄文後期の土偶と百姓娘松山さんとをモチーフに、このふるさとに寄せる思いを舞い物語にして書き下ろした作品であるが、稽古不足に頭を抱える出来ではあったが、概ね楽しく終えることが出来た。

 公演が終わって改めて、物語を振り返ってみたとき、作品に自画自賛するのではなく、このふるさとに自画自賛したい想いが一層に強くなってきた。古人(いにしえびと)が言ったように、やはりここは常世の国、まほろばの里であると断言できる地であろうと思う。

 今、瓦谷の瓦塚という所で、常陸国府の館、国分寺等の屋根瓦を焼いたとされる窯跡の発掘調査が行われているのであるが、この国が常世の国であり、まほろばの里であることを検証し、未来への暮らしを紡ぐ軸を構築することが必要ではないのだろうか。石岡に国府があっただとか、国分寺の瓦を焼いた跡だとかを調査することも良いが、それ以上に、何故石岡に国府を設置するに至ったのか、その根拠に繋がる国府以前の常世の国と呼ばれるに値する、この地そのものの有する豊かさに目を向けて、縄文にさかのぼることの方がはるかに重要なのではないのだろうか、と思ってしまう。

 石岡地区というか、この地域には弥生の文化遺跡の少ない所である。そのことは、縄文、弥生、近代へとの、文化的発展の流れの必要でなかったほど暮らしの豊かな地であったことの証明のような気がするのであるが、どうなのであろうか。

 縄文人たちが、より便利な文化を構築しなくてはならない必然性を感じ取る必要のないほど豊かな地だったのではないだろうか。それで、突然のように縄文人がこの地を追われ、姿を消して近代大和民族支配になってしまったように思われてならない。石岡で唯一弥生文化の遺跡の出たところは、すでに高速道路の下に眠らされている。

 昨年春に、霞ケ浦を半周するように、霞ケ浦を囲む里山を眺めてきた。この地の里山は、食料となるブナ科のカシやシイが群生しており、霞ケ浦の海産物を合わせると実に豊かすぎるほどの地であったことを納得させられた。

 栃木県は栃の実を産する栃の木の沢山生えている所であるが、栃の実を食するには大層面倒な灰汁抜き作業が必要である。いかに大量に栃の実を産しても、暮らしには難儀なことである。その点、シイの実などは楽で、甘みも多い。しかも周りの里山中に実るのであるとすれば、これほど有難いことはない。霞ヶ浦沿岸には多数の貝塚が見られるように、海の幸も豊富であるとすれば、あくせくと進化を急ぐ必要もなかったのであろう。

 朗読舞劇に縄文人を登場させたのは今回で三度目であるが、このふるさの明日を志向し、夢を紡ごうと考えたとき、この縄文の人々にご登場願い、その暮らしにヒントを求めることがもっと多くなるのだろうなと思ってしまう。

 こんなことを思い、石岡の国府バカと言いたくなるような偏った文化程度を考えていたら、先に亡くなった筑紫哲也氏のことが思われた。彼の多事争論というコーナーがあったが、この多事争論に対して彼は次のように言っていたことを思い出した。

「多くの意見を言い合おう。一つの意見だけを受け入れ、他の意見を廃絶しようという低脳な感覚を捨てよう」

 正にその通りである。

 私は今、石岡に住んで、ここは歴史の里であると真実思っている。しかしそれは、この石岡に千三百年の昔、国府があった所だからではなく、この地はここに国府を置かなければならなかった豊かな地であることをもって、歴史の里と称したいと思っている。

 国府ということで見れば日本全国六十幾つかの国府があり、国府そのものには歴史的な価値も無い、ましてや文化的な遺産のことごとくを踏みつぶした所であってみれば尚更である。しかし、常世の国と呼ばれるに値するこの大地の歴史的、文化的遺産は大であると考える。