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風に吹かれて(3)      白井啓治  (2008.5)

 「疲れたら休めと野の花のいふ」

 特別な理由はないのだが、最近少しお疲れ気味である。野の花のいうようにその辺にどっかと腰をおろして休みたいとは思うのであるが、貧乏性なのか、死んだら幾らでも休めるさ、といった思いが頭を掠め、休むのが勿体なく思え何も進んではいないのだが、お疲れ気味に日を過ごしている。そんな所為か、目にする色々なことに気持ちが突っかかり、ざらついている。

 一ヶ月、いやもう少し前のことだったかも知れない。「聾学校改称しないで」という新聞記事を読んだ。聾学校を聴覚特別支援学校と変更するのだという。

 その根拠はと言うと、聾という言葉は差別的な言い方なのだという。耳が聞こえないことを日本語で「つんぼ」といい「聾」の漢字が当てられていた。日本語は差別語で漢字の音読みが差別語ではないのだと言う。そんなこと誰が言いだしたのだろうか。しかし、そんなことをじっくり考えるまもなく、今度は「聾(ろう)」も差別語だという。

 耳が聞こえないというのは、人間的、人格的差別なのか? そうではないだろう。「つんぼ」は差別語で「ろう」は差別語ではない。莫迦言うな、同じ漢字だろう。

 今では、聾も差別語のように追いやられ、聴覚障害者が正しい表現のように言われている。障害というのは、統計学に基づいた医学用語としての定義による使い方であろうが、障害を国語学的、言語学的にみれば、それこそ酷い言い方である。障害とは「妨げになるもの」つまり「邪魔になるもの」という意味になる。障害者という言い方は「邪魔な人」という言い方なのだ。

 言葉が差別語になるかならないかというのは、言葉そのものにあるのではなく、その言葉の使い方、言葉を使う人の心の問題なのだ。耳が聞こえない、或いは目が見えない人に対して、それを馬鹿にして、人間的に劣っているかのように「聾(つんぼ)」だとか「盲(めくら)」と使うから差別語となるので、言葉そのものには人間的、人格的差別の意味はないのである。

 耳が聞こえない、目が見えないという説明の言葉を、「耳が聞こえないくせに」とか「目が見えないくせに」といった、そのことを侮辱するような使い方をすれば、耳が聞こえない、目が見えないという言葉も差別語になるのである。これは言葉の問題ではなく、使う人の心の問題なのである。

 私は「聾(つんぼ)」「唖(おし)」「盲(めくら)」という言葉を雅た日本語であると認識し、そのまま使いたいと思っているし、現実にその言葉を使っている。朗読舞女優である聾の小林さんにも「つんぼ」と言うことばを使うし「おし」という言葉も使う。

 耳が聞こえないという事は、医学的には障害と定義されるのであろうが、私に言わせれば、聾女優である小林さんは、耳が聞こえないという才能を持って生まれてきたと認識している。だからその才能には敬意を表し、同時に絶賛している。

 小林さんの朗読に舞う演技は、彼女が聾者として生まれてきたことによる感性そのものと言える。そう断言してもよい。

聾学校を改称しないで、を訴える記事の中に聾という言葉には、聾という文化がある、というように紹介されていたが、その通りだと思う。

 自分達の心の腐りきったことを棚に上げて、言葉に罪をなすりつけようとする下衆な卑猥さは到底許し難いものがある。雅た文化がドンドン消えてなくなっている責任を誰が取ってくれるのだ。

 雅た言葉には雅た心のあることを忘れてはいけない。言葉という漢字は、心を口に表わして茂らすことを意味して作られた。心とは真実を意味し、口は表現の手段の総称である。

耳が聞こえないという意味の言葉に人間性だとか人格だとかを尺度するものはない。更に言えば、人間性だとか人格というのは尺度することの出来ないものである。私達は、言葉の中に、できない尺度を与えようとする、バベルの塔的な愚かさのあることに気付かなければならない。

ふるさとの歴史や文化を考える時も同様であろう。あくせくあくせく新しいものばかりを捜し求めていてもそこには将来の夢となるような目新しいものはないといえる。

新人賞の審査などを行う時は、現状を、既成を突き破る強さを作品に求めるのであるが、現状・既成を突き破る強さとは、目新しければ良いということではない。

言葉というのは時代とともに変化をしていくものであるが、勝手に意味を変えて新しい言葉を作っても良いというものではない。言葉というのが「心を口に茂らす」というものである以上、真実としての心を無視した変梃りんな尺度を言葉に与えてはいけない。