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風に吹かれて(4)      白井啓治  (2008.6)

 「雑草だって 目守 ( まも ) れば花のきれい」

 雑草という草はないのだけれど、庭の歓迎せざる草々なのでつい雑草と呼んでしまう。実際四、五日前に草むしりをしたはずなのに、雨が上がり陽の射す庭に下りてみたら、もう雑草と叫びたくなる名も知れぬ草達が確りと命を紡いでいる。 

身長が僅か二センチにも満たない草なのだけれど、よく見るともう薄紫色の直径二ミリほどの小花を咲かせている。しかも、当たり前と言えば当たり前なのだが、小花の真中には黄色い花粉をタップリと持ったおしべが、花粉をめしべに運んでくれる虫なのか、風なのかを待っているのだ。

小さくても花は命を継ぐための切実な恋の姿なのだから、矢張り綺麗である。必死に明日の希望へむかって命を紡いでいる姿は、高価な薔薇の花に劣らず綺麗である。いや、切花にされて明日に希望の持てない薔薇の花よりも生き生きと綺麗である。

 

 大型連休の終わった日曜日のことであった。

潮来の石蔵で行なわれた友人のオカリナ・コンサートに出かけた。夏を思わせる陽気の中、湖岸の道を走りながら山側に目を向けると、ブナ科のカシやシイの木が真黄色に花を咲かせていた。しかもその数たるや、湖を囲む山々の半分以上を占めるほどであった。

 ブナ科の木の実は、灰汁の強い俗にドングリと呼ばれるナラの実以外は殆どがそのまま美味しく食べられる。私の知る食用実のつける種類を挙げても、ブナ、ウバメガシ、アカガシ、シリブカガシ、ツブラジイ、スダジイ、マテバシイ、クリと実に沢山ある。殆どが長い房状のクリと同じような花を咲かせるのであるが、里山の半分以上がその花の色で塗りつぶされているのだから、美事の一言である。

 霞ヶ浦を囲んだ山全体が、夏から秋には稔となって人の口に食べられるのだから実に豊な地であると、改めて感心させられた。

 石岡市に越してきて、峰寺山から旧八郷町の穏やかな盆地を見たとき、「ここがまほろばの地に違いない」と感動したのであったが、初夏の陽気の中に湖岸に接近した里山のカシやシイの木が黄色に染まっているのを眺めると、湖と里山、そしてまほろばの盆地を有するこの温暖な地を常世の国と称する以外ないと納得してしまう。

 ことば座の6月公演では、しばらく続いた旧八郷の風景を離れて、物語の題材を湖に持っていこうと、行方市の三昧塚古墳をモチーフに舞い物語を書くことにした。

取材のために三昧塚を何度か訪れたのであったが、まだ里山に新芽が出てくる前のことで、ブナ科の木々の多い事は分かっていたが、花が里山をこれ程に染め上げる様子はイメージの中にもなかった。物語を創作するに当たっては、主に石岡市の歴史認識についてを頭に置いて考えを進めていたので、里山の木々の事については脇に置いてけぼりにしてしまっていた。

 しかし、霞ヶ浦を見下ろす里山の半分以上が、人の食という暮らしの豊さを支えてきた木々である事をこの目に見てしまうと、古代、常世の国として人が最初に暮らしを始めたのは、この湖岸を囲む里山であったと確信するとともに、石岡市が府中のあったことにのみ依存して歴史の里を自称しようとする、発展のない、あるいは発展を拒否した現状が鮮明に見えてきた。

 三昧塚古墳をモチーフにして書き上げた物語は、歴史家が聞いたら何たる無知な、とあきれ返る根拠のない異説であるが、この地を最初に発見し、ここに暮らしを紡ぐことを始めた古代縄文人を想うとどうしても異説を唱えたくなったのである。

その異説とは「三昧塚古墳は、墳墓ではなく舞い塚であった」というものである。この地に最初に暮らしをつくった古代縄文人(生粋の日本原住民族)が、豊な暮らしを与えてくれる風と大地に対して、感謝の舞を太陽が沈み落ちる筑波山に向かって舞うために盛りあげた塚であった、と勝手な異説を作り上げて、舞い物語として創作したのである。

 石岡のことを歴史の里と自称しながら文化的発展を拒否していると言ったが、実際のところ石岡に越してきて真っ先に感じた事は、歴史の里とは言いながら何と歴史的、文化的発展を拒否している処なのだろう、であった。しかし、その答えは直ぐに見え、理解が届いた。

 石岡市の歴史において語られることとは、石岡が府中であった事だけで、それ以外に語られるものが全くないのである。しかも語られる内容が、何時も一方通行のものばかりなのである。往来する道がないのである。

 その地に語られる歴史に往来の道のない片道の一方通行路しかないということは、そこに物語がないということになる。つまり、未来への夢と感動のない歴史と言うことになる。

 石岡の歴史を尋ねるときその第一声は国府が置かれた地であることと、常陸国風土記に書かれてある、を絶対の拠所としたものの内容でその九〇%が終わるといっても良いほどで、暮らしの物語の語られることのないものである。

 しかし、常陸国風土記にもある晡時臥の山伝説に纏わる龍神山を採石場に売り飛ばしてしまったのだから、常陸国風土記に縋っての一方通行の歴史の里と言うよりもこの先通行止めに似ている。夢がないと敢えて言うまでもないことなのであるが、実に夢のないことである。

 茨城県となった由来の地であるという話もそうである。風土記に書かれてある、平和な暮らしを乱す野蛮な「野の佐伯」「山の佐伯」と呼ばれる土ぐもがおり、それを都から来た黒坂の命が、茨の木をもって退治した、などの話しをそのままに、石岡の茨木台がその地であると信じて疑わない。

 しかし、少し調べてみると、茨城が茨木からきたという根拠は何もないのである。何時から茨城あるいは茨木と書くようになったかは定かではないのである。当然、黒坂の命が土ぐもをを茨で退治したことから等という事実もない。古くは、「牟波良岐」とこの地名の呼び方を表記していたようである。

 黒坂の命の話などは、勝てば官軍の言で、もともと狩猟・採取に適した住み良い地に住んでいた縄文人を追い払い、大陸、南方系からの侵略者達(大和民族)が住み着いただけのことである。

 常陸国風土記をこき下ろすわけではない。常陸国風土記は、歴史的文化価値のある重大な一つであることには違いないし、その書は夢のある物語ではある。しかし、其処に記載されている内容が、歴史の真実かと言うと決してそうではない。勝てば官軍の書以外の何物でもない。

 だが、この常陸国風土記は、一方通行の書ではない。その書が一方通行になるのか否かは、その書を用いる人たちの問題なのである。

 ことば座六月公演の題材を霞ヶ浦に求めようと思った時、突然に文化的発展を拒否しているような印象のある石岡に警鐘を鳴らしたくなり、常陸国風土記に記されている黒坂の命の土ぐも退治の伝説の異聞・余話として三昧塚古墳に異説を与えてみようと思ったのである。

 

 「雑草だって目守れば花のきれい」

目守る(まもる=目を凝らしてよく見ること)。

雑草だけではない。何でも、確りと目を凝らして見つめてみれば、今迄気付けなかった、色々なものが見えてきて、新しい夢や希望を紡ぐことが出来、吾が人生まんざらでもないな、と思えるものである。