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歴史随筆(9)      打田 昇三  (2008.12.1)

 

二つの平氏   2008.12.1

 平家の全盛時代に「平氏に非(あらざる)者は人に非ず」と豪語した平時忠は、二位の尼こと平時子(清盛夫人)の兄で大納言の職に居た。

 同じ桓武平氏でも清盛の系統は葛原(かずらはら)親王│高見王│平高望(たかもち│国香と、一度は常陸国に定着しながら貞盛が都に上り、藤原氏に抑圧されつゝも伊勢神宮の神領に土着し、力を蓄えていた。

謎の部分も少し有ったとか……。

 時忠・時子の系統は高望王より20年も前に伯父の高棟(たかむね)王(葛原親王の長子)が平姓を貰って大納言となり子孫は官僚化した。

四代目の平直材には珍材(はるき)という文字通り珍しい名の弟があり、生昌(なりまさ)・惟仲(これなか)という子が居た。父子とも地方の官僚だったらしい。

 一条天皇の時代に定子皇后が出産を前にして屋敷が無く途方にくれていた。兄が不祥事で囚とらわれ実家が焼かれ、対抗する道長が嫌がらせをしたのである。

その時に平生昌らは道長の眼を恐れず、皇太后の意を受けて自分の屋敷を提供したり協力を惜しまなかった。

 平貞盛から常陸国の半分とも言われる領地を貰った多気大掾(たけのだいじょう)氏も、道長には尻尾を振らず、賢人と称された藤原実資を主筋に選んでいたという。

「……人に非ず……」は論外だが、やがて藤原氏を屈服させる「平氏の気骨」のようなものがあったのかも知れない