童話への旅 2008.7.1 アンデルセンは恋物語などでデビューしたが後援者に示唆され見聞のために祖国デンマークを離れてドイツを手始めに29回も他国を訪れた。 二度目の旅は失恋もあってイタリアの辺境と言えるソレント半島を回り、出世作「即興詩人」の構想を得たという。 日本でも森鷗外の名訳が明治浪漫文学の記念塔と称された作品である。 「伊太利に名どころ多しと雖いへども、このアマルフィイの右に出づるもの少かるべし……」千メートルもある断崖絶壁に張り付くように建つアマルフィイは八世紀頃からベネチアなどと競った海運港湾都市国家として栄えたが十字軍以降に衰退していた。 その栄華の跡と古代ローマを興して追われたエトルリア人の定着地というアンバランスな歴史、そして奇勝絶景が、生い立ちと文章の技法にコンプレックスの有ったアンデルセンに大きな衝撃を与えたのであろうか。 「即興詩人」を発表したアンデルセンの名声は広まったが、彼は突如として童話作家に転向して人々を驚かせた。 「童話こそ彼の本領」と認められたのは「人魚姫」が発表されてからのことと聞くが、アマルフィイで開花した文豪としての才能が「即興詩人」一作で消えたとは考えたくない。
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