初代府中藩主 2008.2.1 府中(石岡)藩を最初に治めた大名の六郷兵庫頭政乗(ろくごうひょうごのかみまさのり)は十数年で出羽本荘(でわほんじょう この一族は鎌倉幕府の執事職を世襲し、閣僚に相当する「評定衆(ひょうじょうしゅう)」に何人も名を記録する。 南北朝末期に武州六郷(大田区)の二階堂河内守道晴が関東の争乱を嫌って陸奥(むつ)の領地へ行く途中で狩野(か のう)支流の神尾氏・久米氏に管理させていた出羽の国の荘園に立ち寄った。 狩野氏は源頼朝の重臣で、石岡ゆかりの大掾(だいじょう)氏本流多気義幹(たけよしもと)夫人の実家である。 狩野と二階堂は藤原系同族であり主筋の道晴が陸奥へ赴かずに仙北平野に六郷氏を興した。 旧六郷町は伝統行事「かまくら」発祥の地とされ六郷氏が勧請した諏訪神社前の「鎌倉竹合戦」と共に伝えられる。佐竹氏の左遷で入替に府中へ来て一万石は元通りだが本荘藩は二万石、息子の代に三万石となり幕末まで続く。 大名改易の多い中で厚遇されたのは、徳川幕府が二階堂氏の格を重んじたためと思われる。旗本か譜代大名になるよう勧められ、頼んで外様大名のままにして貰った。 秋田で同盟していた本堂氏は旧志筑領八千五百石の旗本になり、源頼朝の子孫を公認されて、五万石に相当する家格を与えられていた。
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