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歴史随筆(3)      打田 昇三  (2007.7.1)

 

古墳の主   2007.7.1

 舟塚山古墳の被葬者は茨城国造とされているが、かなりの豪族でないとあれだけのものは造れない。

玉造の三昧塚( んまいづか)古墳から出土した「金銅製馬形飾付冠(こんどうせいうまがたかざりつきかんむり)」が船と馬とを使い分けた古代交通及びそれを支配した沿岸地域豪族の存在を示唆してくれたと言われている。

陸上交通は三昧塚の主が抑え舟塚山の主は海路を支配した豪族だったらしい。鹿行地方から進んできた建借間命(たけかしまのみこと)ら王朝勢力に協力して大型墳墓の生前築造を許されたものか。

 約二十万基中、史跡指定を受けた古墳・古墳群は二七〇ほど県内では舟塚山と建借間命の愛宕(あた山(水戸)と虎塚(関東地方最後の前方後円墳)で、陵墓以外の由緒ありげな古墳が史跡になったため四大古墳地帯( 畿内( ない)及び吉備(きび)、北九州と上野(こうづけ))に集中している。

 上野・下野(しもつけ)は丸山古墳の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が開拓し子孫が定着した国である。

丸山古墳の伝承が本当ならば日本の古代史に関わる重要な謎が柿岡盆地から龍神山一帯に埋もれている。   

 三昧塚は砂利採取で崩壊してから冠が出現し大発見の身代わりとして古墳は消えた。

舟塚山は未発掘らしいから残るだろうが出土品と史跡と伝説は一体で残ってこそ価値がある。