国分寺の建立年代 (3.1) 石岡市が「歴史の里」を称している理由は舟塚山古墳と常陸国府、国分僧寺・同尼寺の遺構に由来するのだと思う。 国分寺は六十何か所に建てられ、遺構の現存は僧寺が三十八か所で、尼寺は九か所しかないが、石岡には両方があり国の特別史跡に指定されている。 国分寺建立の詔は天平十三年(七四一)三月二十四日に出されたとするのが定説であるが、歴史学者の間では他の史料との関係からこれを「二月十四日」の誤記とし、別に「天平九年(七三七)説」もある。(国立国会図書館蔵本に天平九年のものがある) 確かに天平九年に仏像を造らせ、十二年に七重塔を建てさせてから国分寺造営を命じるのは不自然であり、十三年は「金光明四天王護国之寺、法華滅罪之寺に区分し管理を定めた年」であろうと推定している説に頷ける。 石岡市史にも国分寺造営工事は進まず役人が苦労した記録が載せられているが、一番に苦しめられたのは工事に駆り出された庶民であるから、その霊に報いるためにも記録は歴史として正確に伝わらねばならない。
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