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風に吹かれて(09-12)      白井啓治  (2009.12)

    

 『立ち止まれば風の居る 師走のやって来る』

 

 随分一生懸命に走ったな、と立ち止まったら、風が吹いて来て今年もあと少しで終わりだ、と囁いた。

風の囁きに唆されたわけではないが二〇〇九年という年を振り返ってみると、…そう、概ね良い年であったと言える。特にこの風の会にとっては、良い年であった。三周年という節目を無事に迎えたこともあるが、三年間にわたって欠けることなく月一回発行してきた一つの成果ともいえる嬉しい反響を頂けるようになってきたことである。

先月、四十二号でのことである。兼平ちえこさんが、昨年春に「霞ヶ浦、常陸国風土記を歩く会」の皆さんのおともをして石岡市の歴史巡りウオーキングされた時のコース19にわたって連載され、先月号で終了した。

兼平さんは、歴史巡りの解説に石岡市教育委員会発行の石岡の歴史などを資料としてまとめられたのであるが、その内容について時々読者の方々からご指摘を頂いた。これは会報を出している者としては大変嬉しく思うものである。

兼平さんへのご指摘の多くは、崙書房の太田尚一氏(本来ならば名を伏せるべきなのであるが、ふるさとの歴史・文化への思いを共有されており、当会へも投稿頂いているので敢えて書かせていただきます)で、「兼平さん嘘書いてはだめです」といった言葉で、その都度「何故ならば」の資料をお送り頂いている。

小生も、この会報にことば座に書く朗読舞劇の脚本予告をすると、この資料をお読みですか、とお送り頂き、大変に助かっている。

これは石岡市に限ったことではないのであるが、県や市などの教育委員会といったところの編纂した地元の歴史書に感心するものは殆どないと言っていい。小生口が汚いのでこんな言い方をしてしまうのだが、大半が権威主義的な史家を中心として、ご都合主義的に願望を事実に置き換えたようなものが多く、そこには『真実としてのドラマ』を見る事が出来ない。これでは若者達が古里の文化に目を向け、愛着を持つことができなくても当然であろうと思う。

 兼平さんは品行方正真面目一方の方だから、歴史ご案内の解説を石岡市史に求めてしまう。本当はそれが正しいことなのであるが、その内容を見ると「常陸国風土記」の内容が正しい歴史の真実である、と鵜呑みにするようなものである。諸国風土記の内容は勝者の視点、都合で書かれたもので、事実からは遥かに遠いものである。だが、事実としての歴史ではなく、歴史物語としては重要な文化財ではある。そんな訳で、兼平さんは太田氏から電話が入ると戦々恐々となるのである。そして、市史を見て書いたのに、…と首をひねるのである。

 先月号でようやく石岡歴史巡りを終了しホッとしている所へ、太田氏からまたまた嘘書いちゃだめです、との応援のお電話を頂いた。兼平さんはまたショック。しかし、この話を聞いて、打田さんから原稿が届いた。こうした言葉の往還は実に嬉しく、楽しい出来事である。  

今月号は、三周年展と、本年度の総括を書かねばと思っていたのでちょうど良い。兼平さんの原稿を見て太田さんのご指摘があり、それに対して打田さんが太田さんへの返礼と所感の原稿。太田さん、打田さんのご意見を聞いて兼平さんの今月号の原稿。これこそ風の会の掲げている「ふるさとの歴史・文化の再発見と創造を考える」そのものである。編集を任されている小生にとっては、実に嬉しく、愉快なことである。

 打田さんからの原稿は二本届いた。短いものなので両方掲載したいと思う。

 

@ 二つの佐志能神社      

「ふるさと “風 ”」の第四十二号まで、兼平ちえこさんが市の歴史ガイドとして遺跡を探究される方々へのご案内をされた場所を紹介している。最終回は石岡市が誇る龍神山の欠片と、村上・染谷両集落に祀られる佐志能神社であった。私は当時の人々がどのように生きたのかに関心があるから遺跡や社寺楼閣の類いを見ることは少ないので兼平さんの紹介記事には教えられる。

今回、取り上げてくれた「二つの佐志能神社」は目と鼻の先に同じ名前で祭日も同じ、祭神も似た様な神社で、途中から分村に伴い分離したと言われる。勿論、兼平さんは石岡市史を引用されているので改めてそれを読み直してみると「三代実録」に官位を授けられた記録が残る村上社は尤もらしいが、染谷社の由緒はどうも不自然である。

「染谷佐志能社は「承和四年(八三七)三月仁明天皇のとき常陸国新治郡佐志能神社に預かる、祭神豊城入彦命、崇神天皇の子御母、紀国造荒河戸の女、勅命を奉じ東国を鎮定の大功をたてたので子孫東国の国造に任ぜられる者が多かった…」云々で、子孫が新治国造になった際に祖先を顕彰するために建てられた神社だと説明しているのが分村分離の経歴と龍神山の伝説に合わない。

特に太字部分が意味不明だったが、郷土史の専門家である崙書房の太田尚一さんから兼平さんに

「染谷佐志能神社の由緒とされているのは、古代の新治国に伝わる佐志能(佐白)氏の手柄話を牽強付会したもので、この地域の歴史ではない」とする趣旨のご指摘を頂いたことを伺ったので私も市史の奇妙な表現の意味が分かった次第である。(御教示に厚くお礼を申し上げます)

つまり、村上神社から分離した染谷の神社は何らかの事情で一時的に笠間の佐志能神社(佐白山正福寺)に預けられたか、或いは経緯は不明だが古代の新治国が置かれた笠間地方の伝説が誤って伝えられたかであろう。笠間・城里・水戸の堺にある朝房山が、龍神山と同じ晡時臥山(くれふしのやま)伝説を持っているので混同する可能性はあると思われる。

石岡市教育委員会が出している「石岡の地誌」や地元に伝えられる話では、かつて村上集落から染谷地区が分離独立したため、信仰していた神社も二分したのだが、その時期は江戸時代と記録にあり「国造」が登場する古代ではないらしいから、双方の由緒が違うのは不自然なのである。本来は一つだったものが二つになって元の歴史が変わるというのは筋が通らない。そう言う部分をキチンと正していかないから、太田さんが指摘されたような石岡には関わりのない伝説が入り込むことになるのであろうか…。

 龍神山麓の辺りは怪奇な伝説が残るくらいだから昔から境界が入り乱れていたらしく裁判沙汰まで起きており、支配者も頻繁に変わって神社はその度に影響を受けていたのであろう。仏教の強大化で神社が支配下に置かれたことも、歴史が正しく伝わらなかった一因と思われる。佐志能神社は本来「村上神社」という由緒正しい神社である。その起こりは、大和国三輪山に伝わる蛇神伝説にある。三輪の神を祀る「みわかみやま」から「むらかみやま」に変り、清らかな水が湧き出る聖地として丹生川上の高龗と吉野下市の闇龗の二神が祀られ「子は 清水 」の伝説が伝わり古代の酒造が行われ石岡が酒造りの町になる。

 此処まで書いてきて「佐志能」を忘れようとしたのだが「石岡の地誌」に気になる記事が有ったのを思い出した。石岡市石川地区に居た大掾一族が天慶の乱で平将門の軍勢に攻め込まれた。その時に石川地区が焼かれて神社、寺院が廃墟となり石川氏が滅亡した。焼かれたのが「指野(さしの)神社」で祭神が「佐志能大権現」と言う。どういう神様かは知らないが、染谷と石川地区とは恋瀬川の上下流であるから交流も可能であるし、両方とも大掾氏が支配した土地であったと思われる。

そうなると、分村・分離説も疑わしくなり染谷の佐志能神社は元来、大掾氏が信仰していた神社に笠間地方の伝説が誤って伝わったもの。そして村上の佐志能神社は仏教の興隆で衰退したが古くからあった村上神社であり、一旦は消滅したが明治時代になって染谷・佐志能神社から分祀した―ということも推定できるのである。従って、石岡市史に「佐志能は佐白の転訛」だなどと決めつけて済ませておくのは勿体ないことになる。

個人的所感だが、商店街の出店では無いのだから近くにある二つの佐志能神社のうち、染谷にあるのが「佐志能神社」で、村上の佐志能神社は原点である「村上神社」に戻すのが本来では無かろうかと思う。しかし肝心の三輪神の山である龍神山が忽然と消えてしまった現代では、罰当たりな意見ながら「どうでも良い」と言うほかはないのである。(神様、ごめんなさい)

 なお石岡市史に佐志能神社祭神・豊城入彦命の

母親を「紀国造荒河戸の女」としているが、古事

記、日本書記では「荒河戸辦(畔)あらかわとべ」さんになっている。せめて名前ぐらいはきちんと伝えてあげないと…。

 

A 龍神山と佐志能神社

 「山高きが故に貴からず」日本の国土は約七十五%が山地だそうですから山は至るところに在りますが、その中から特に神の宿る聖地として選ばれるにはそれ相当の理由がある筈です。合併前の 石岡市 には山らしい山が龍神山一つしかありませんでしたが、その地形、姿形、雰囲気、景観、自然環境、ご利益、四季の変化が条件に叶い、古代から伝えられた伝承と相俟って千数百年の間、龍神山は周辺の人たちに親しまれ崇められてきたのでした。

 ところが人間に幸不幸があるように山や神様にも運不運があるようで、龍神山とそこに宿る神は実に気の毒な経歴を背負っているのです。「龍神山」も山麓に祀られている「佐志能神社」も、その権威を裏付ける戸籍が失われかけているからです。それどころか、龍神山はその存在さえも全面否定されそうになっています。これを不運と言わずして何と言いましょうか。

 龍神山が背負ってきたのは、大和朝廷発祥の地である奈良盆地の三輪山に興った「蛇神伝説」であり、これは古事記などにも記載されていますが、稲作文化の普及と王朝勢力の東征に伴い常陸国の「晡時臥山(くれふしのやま)」に伝えられてきた怪奇な物語です。実は、その晡時臥山が龍神山の他にもあって、どちらが本当なのか意見が別れているのです。

常陸の国は蝦夷に備える重要な国でしたから、この地方が開発される際に物部氏や出雲系、さらには中臣系などの武将たちが次々と送られて来たために「茨城郡」が成立する過程が段階的だったと考えられています。つまり県庁の移転と同じように初期の茨城郡と完成期の茨城郡があり、石岡は完成期の茨城郡だったことになります。したがって、どちらが本物だという議論ではなくて、両方共に本物だとすれば良いのですが、どうしても黒白をつけたい専門家もいるらしく龍神山は長い間、落ち着いた暮らしが出来ずにいるのです。

そして「龍神山」という呼び名は晡時臥山伝説が定着してから付けられたように思えてなりません。古代には三輪の神様の山、「みわかみやま」とよばれ、それが訛って「むらかみやま」になったと推定しています。そう考えれば龍神山こそ晡時臥山だと言い切れるのですが、誰も言ってはくれないようです。

一方、龍神山に祀られている「佐志能神社」も二社あります。稲荷神社とか八幡社のように、その時々に地元の人が勧請してきて神社が各地に増えていくのですが、佐志能神社の場合は叫べば聞こえるほどの距離に祭神が異なる二社が鎮座しており、その祭日が両方四月十九日というのは少し不思議です。

  石岡市 史には、なぜ二社があるのか肝心なことを説明していませんが地元の伝承やら他の史書やらを見て推察するところ、佐志能神社は創建以来、村上に置かれ、祭神はこの地域に東征して功績のあった「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」、さらに高龗・闇龗(たかおかみ・くらおかみ)を併せ祀っていたのです。これは龍神山に滾々と水が湧き出ていたことから農耕に不可欠の水神・雷神として雨乞いを司る古代の名族・葛城氏が吉野山中に祀っていた神を勧請したものです。村上神社は仁明天皇の承和四年(八三七)には官社に列し、光孝天皇の仁和元年(八八五)、従五位の上に叙されています。諸国大名と同等の官位です。このことは、かの天神様こと菅原道真らが編纂した「三代実録」に記録されています。石岡にある他の神社など足元にも及ばない格式でした。

 村上という古代の集落は「村上千軒」とか「百の姓」とか言い伝えられるように大きな村でした。龍神山麓の豊かな水資源に支えられ栄えていました。絹織物が生産され、また、室町時代に入ると木綿が普及してきましたので、それに色を着ける「藍染職人」が必要になります。山麓の水や「子は 清水 」伝説の泉から沸く水を恋瀬川に流す「高根川」の川岸台地に、いつの頃からか染物職人の集団が住み着くようになり「染屋」と呼ばれていました。

 染屋の人口は増え、染物には多量の水が必要ですから、高根地区から水の豊富な龍神山麓へ移動をしてきます。その頃、茨 城南郡の村 上地区は石岡城にいた大掾(だいじょう)の一族が支配していましたが、鎌倉にいた室町幕府の関東公方(かんとうくぼう)に抵抗したため、主の満幹(みつもと)が鎌倉で殺害されて、家名は存続しましたが大掾氏は滅亡寸前の状態だったのです。

 染屋職人の集団が住み着いたのは村上地区の一部でしたが、石光名(いしみつみょう)という小規模な荘園内でしたから、恐らくは大掾氏の衰退に乗じた領地の移動があったのでしょう。染屋職人の居住区が村上から分離させられたのです。「染谷」となったのもその頃でしょう。そして染谷は茨城北郡に含まれたのです。時代は室町中期、西暦一四〇〇年代の半ばと推定しています。

 一般には、所属する郡が違い、領主が違ってきたために、分離にあたって染屋地区にも佐志能神社を建立したとされているようですが、因縁と言うか因果と言うか、どうも別な説があるようなのです。それによれば、村上佐志能神社が置かれていた場所、つまりは現在の染谷佐志能神社が染谷領にかかってしまったので、本家である村 上村 のほうが、日本武尊を祭神とする神社を別に創立したもので、それが現在の村上佐志能神社であると言うのです。 石岡市 史などもその説を採っているようですが、現在の村上佐志能神社はずっと龍神社と称し、明治十六年に現在の神社名になったということですから、何となく疑問もあるのですが、真相を確かめる史料がありません。どうも龍神山と同じように佐志能神社もまた、戸籍のことで問題を抱えているようで、お気の毒です。

 神社の問題を考える場合に忘れてはならないのが寺院との関わりです。明治維新の神仏分離まで、どこの神社も寺院と一緒でした。お寺としての性格のほうが強かったのです。村上佐志能神社も錫杖院(しゃくじょういん)という寺院だったのです。そして、このお寺の本山が何と、染谷に置かれた金剛山宝持院密厳寺(こんごうさんほうじいんみつごんじ)という新義真言宗の寺です。密厳寺の創建は文安四年(一四四四)だそうですから、丁度、染谷が村上から分離した頃になります。大掾氏没落で集落の力関係が逆転したのです。

染谷の佐志能神社には今でも「十二座神楽」が伝わっています。地元の方のお話では後継者不足で伝統芸能の継承が難しいとか、その十二座神楽は芸能が盛んになった室町時代に染谷地区に伝わったものらしいので、密厳寺の建立に伴って新義真言宗豊山派の大本山である奈良・桜井の長谷寺から導入したのではないかと推察しています。なぜかと言えば旧八郷の真家地区に伝わる「みたまおどり」が長谷寺からのものですし、詳細は分かりませんが長谷寺は別名を「豊山神楽院」と言うのです。なお、長谷寺の所在地は晡時臥山伝説の発祥地に近いところですから何らか因縁が感じられます。

 神様の話なのお寺が出てきて申し訳ありませんが、序でにもう一つ、気になる話があります。江戸時代の末期に書かれた村上地区の記事に「柿岡道、村上へ向かって左の方、幼(ちご)の墓というあり。見るに大石の岩石ありて、これ、その頂に愛宕の神を祀る。古来より花光院(所在不明)の支配なり。甚だ旧跡と見ゆれども伝の未知と書せり。村上神社とは男龍神か、又は幼の墓か、是非を知らざるなり」とあります。

 現在の村上佐志能神社には本殿前に巨大な岩石があり、裏山は見上げる崖で古木生い茂り、正に神代を思わせる雰囲気があって、上のほうにも鳥居が立てられていたようですから、記事の場所は村上佐志能神社のような気もします。

村上・染谷とも佐志能神社は仏教に支配され、内容を変えながらも連綿と千六、七百年間続いていたことになります。

 現在、村上社は金比羅神社が、染谷社は総社宮が管轄しているようですが、かつては両社の神官は同族だったそうです。両社とも地元の人たちが集まって祭礼を執行されています。染谷社のほうは十二座神楽が残り、また参道が続いていたため、近年まで祭礼が賑わっていたようですし、村上社は集落の中にありながら古代の面影を残しています。男龍と女龍とに分かれるそうですが山と同じように、どちらがどうだと言わずこの際に二社一所として存続されることが理想のような気がしてなりません。男龍と女龍は夫婦なのでしょうから。

 合祀される場所は現在の村上社と染谷社との中間点が良いのではなどと、勝手に考えて龍神山を見上げたら、中間点は完全に崩されて在りませんでした。

龍神山が無事でいたならば山頂までの道を整備し、絶景のハイキングコースとして観光に一役買えたのではないでしょうか。歴史の里が意味のよく分からない「風土記の丘」だけに頼っているようでは、不運な龍神山や佐志能の神々を安堵させることは出来ないでしょう。石岡が繁盛しないのはその所為かも知れませんよ。

佐志能神社に関する「 石岡市 史」の記載事項抜粋(関係部分)

佐志能神社(村上)

鎮座地  石岡市村上 字男龍下四九四

祭 神 日本武尊   闇龗神

由 緒 村 上村 にあり 土人龍神と称す 今

(明治期)新治郡に属し雄龍山の麓にあり「龍

神社」と号す

  創建年代年月不詳なれども、三代実録

に仁和元年九月七日戊子、授かるに常陸国従五位下、村上神社従五位上とある。

龍門・君門の二穴あり、甚だ深く底知れず、これより 清水 湧出村上の引用水なり、世に村上に井戸なし社殿しばしば火災あり、明治十六年四月現社号となる。

昭和二十七年、宗教法人設立 

宮司 八城精一

祭礼、四月十九日  古典民芸十二座神楽の奉納あり

佐志能神社(染谷)

鎮座地  石岡市染谷 峠一八五六

祭 神  豊城入彦命  高龗神

由 緒 承和四年三月、仁明天皇のとき常陸国

  治郡佐志能神社に預る豊城入彦命東国鎮定

  の大功を立て、子孫東国の国造に任ぜられ

  る者が多かった。玄孫荒田別命の子孫、佐

  白公新治国造に任じられたとき祖神を鎮斎

  した。(佐志能は佐白の転訛)

   高龗神は村上の闇龗神と同胞にして両部で

   龍神と称し雨の神である。村 上村 では別に

   一神社を創立し日本武尊と闇龗神を鎮斎。

   文久二年九月に社殿炎上しその後再興した。

   屏風岩の穴に手を入れると雷鳴があるまで

   抜けず、(風神の穴)ここより黒雲湧き雷雨

   を降らすという。      

  明治二十九年郷社に列格

  昭和二十七年宗教法人設立   

        宮司 石崎 弘

  祭礼、四月十九日 古典民芸十二座神楽の

  奉納あり

この記述は分離の理由として「佐志能神社のあった場所が染谷領だった」とする説に依っています。分離の際に「染谷地区が新たに佐志能神社を建立した」説もあり、どちらかに断定する根拠はないのです。古代に従五位上の官位を得ていたのは、あくまでも「村上の社」だったのですから、簡単に「染谷の佐志能神社が元からのものだった」と言いきれないように思います。

 

 実に愉快な気持ちにさせられる。紙上書簡のようなことができる様になったのは正しく三年という積み上げの結果であろう。十月に当「風の会」と朗読舞劇団「ことば座」の合同三周年記念をギター文化館のご協力を頂き、行ったのであるが、三年間の積み上げの成果がこのような形で表れてくれたことは愉快この上もない。継続が生んだ愉快が、いつか文化力となる事を望んでやまない。

 以前にも書いたが、この会の人達の自分の思いを通してふる里を表現しようとする執念のようなものには頭が下がる。途中退会された人もいるが、残っている人、また新しく参加した人達には、今月は原稿なし、と言うことが一度もない。これは凄いことであると思う。

 よく「忙しくてできない」という言葉を聞くが、どんなに忙しくても、出来ないという事は決してない。忙しくてできないと言うのは、やりたくない、ということに他ならない。忙しくて、という台詞を「やりたくない」の隠れ蓑にして言い訳する奴は、所詮何もできない奴、と私は断言する。

 自分自身の経験からしても、忙しくてできないという事は決してない。年80を超す脚本を書きなぐり、十数本の短編映画を監督し、それでも何かをやる時間は創れた。80本の原稿と言うと、原稿用紙およそ七千枚ほどになる。ゆっくり眠る時間など到底ない。それでも時間は創れるのだ。

 忙中に閑あり、というが私はその言葉は好きではない。「塵裡に閑を偸む」が正解であると思う。何処かに少しぐらいの閑はある筈だと探しても決して閑は見えてこない。閑は偸まない限り無い。

 閑を偸む知恵のない奴は、暮らしの知恵も働かすことはできない。私はそう断言する。

 風の会会報の三年を総括してみるに、全員よくぞ閑を偸んだものと思う。今後も閑を偸む知恵を持ち続けたいものと願ってやまない。

 風の会の兄妹である劇団「ことば座」も風の会に四カ月遅れの十月に三周年を迎えた。発信基地としたギター文化館での公演は、この十二月で十八回になる。公演活動の第一ステージとして三年間にわたって二カ月に一回の定期公演をこなしてきた。主演女優の小林幸枝をプロの女優として確りと自立させるためには、ハードすぎるのであるが、これをこなせない様ではお話しにならない。

 しかし、実際には大変なことではある。音を上げることなく続けてくれた。見事に第一ステージをクリアしてくれた。来年からの第二ステージのどこかで、一つ切っ掛けを掴んでもらったら間違いなく新しい表現女優としてブレークしてくれるだろうと思う。

 ついでに自分のことも少し褒めておこう。三周年記念展及び公演に際して、ギター文化館の 木下 代表がブログで、「考えてみたら、この三年間で新作を二十三作品書き上げるのは、凄いことだ」と書いて頂いた。そうさ、本当は凄いことなんだぞ、と自分を褒めてみるが、小林幸枝に約束した百の恋物語に届くのはまだまだ先である。漸く四分の一に達したばかりなのである。

 兼平さんの石岡歴史案内に端を発して、本紙上における書簡が実現した。こうした嬉しい出来事の起こる中、十一月より毎月第二土曜日の午後七時から、いしおか補聴器の阿部さん、風の会、ことば座が協力し「ふるさとの歴史・文化の物語を朗読に聴く夕べ・ふるさと知ろう会」がスタートした。

 ふるさと知ろう会の第一弾としてのテーマは、「常陸国分寺」で打田さんが執筆を担当。第一話「仏教の伝来」を朗読した後、打田さんを囲んで雑談会が持たれたのであるが非常に楽しく有意義なものであった。いしおか補聴器さんのお店を借りての知ろう会なので、十二、三人までの小さな集まりではあるが、このような地道な会が長く続いてくれることを願うものである。

 当面は、打田さんに原稿執筆を担当して頂こうと思っているが、朗読時間と原稿の枚数を把握するのに苦労しておられる。しかし、原稿に書ききれなかったことを、雑談の中に伝える事はそれこそ一方通行にならなくて楽しいことである。参加人数に限りがありますが、色々な方の参加を期待するものである。

 継続という点では、今年を振り返っての唯一の汚点、というか情けないことは、自分達の暮らすふる里についてもっと主体的に考え風土に培われた文化の力で人の流れを創造しよう、とギター文化館の協力を得スタートしたふるさと文化市がわずか三回で頓挫したことであろう。

先に書いた「忙しい」を「やりたくない」の隠れ蓑に使った言い訳の典型と断言できるもので、そこに関わりをもった者としてはやはり本年の汚点であったと総括し、断ずる以外ない。しかし、文化人を自称する吾と吾等であるから「敗闕も当に風流なり」は当然、見失ってはいない。

 さて、次なる寅の年にはいかなる愉快に風流することができるのであろうか。