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風に吹かれて(6)      白井啓治  (2008.8)

 『熱波に追われて

独りとぼとぼ風もとぼとぼ

雑木林』

『今日も行き暮れて鴉の一羽』

 最近、詠んだ一行文を読み返すとき、怠惰で厭世的な臭いを感じ、スランプなのだろうか、と思ってしまう。この二つの一行文は、何れも恋歌といえば恋歌であるが、何とも投げやりな感じがしてならない。このような文を掲載するのはどうかな、とは思ったが、この原稿のために詠んだ文だから、そのまま載せることにした。

 怠惰で厭世的な臭い。それは女々しく、しみったれた未練な自己愛、とでも表現した方が解り易いだろうか。詠んだ文そのものは恋歌であるが、その中身は失恋の歌である。失恋時の心の中は、所詮は未練な怨み節だから、大概の失恋の歌は愉快なものにはならない。

しかし、私の感覚としては、失恋も人生の愉快でなければならないと思っているから、投げやりで厭世的な未練な臭いは感心しない。哀しくても愉快でなければいけない。

 私は、それこそ誰彼構わず「恋をしろ」と言っている。恋することの愉快とは、自分勝手で、一人よがりの希望をドンドン膨らませていくことだといえる。だから当然そこには互いに好き合い、相手のことだけを考え思っているようであっても、それぞれの勝手な希望が膨らんでくるから失恋も生まれる。失恋だから心も痛くなる。しかし、その痛さとは所詮愉快な痛さだといえる。

 詠んだ二つの一行文も、人生の愉快としての心の痛さが詠われていれば希望のある文といえるのだが、怠惰で厭世的臭気が先に聞こえてくるのは実に希望の見えないことである。

 小林一茶のように「森羅万象みな句にしてやった」とは、理屈としては理解し、そうありたいとは思っているのだが、全てを人生の愉快と達観し、その通りに文を紡ぐというのは実に難しいことである。

 

 七月十三日のこと。美浦村の市民劇団「宙」の公演に出かけてきた。普段は、お誘いを受けても、市民劇団のような舞台には殆ど行くことはない。それは、観劇する前から情熱だけの押し付けしかない事が分かるからだ。だがそれは、仕方のないことではある。

 しかし、今回美浦村に出かけてみて、石岡には期待することが難しい希望的な愉快のあることを知った。

 有志が集まった市民劇団であるから、団員達の情熱は当たり前のこと。それが大きな押し付けになっていても構わないと思っている。もしその押し付け的情熱がなかったら、過激な言い方ではあるが、それこそ観るに値するものはないと思う。

 私が、希望的愉快を思ったのは、美浦村の人たちの舞台への一生懸命な応援参加であった。団員と一緒に舞台を創っているという感覚を持った観客が大多数を占めていたことであった。これは、文化の原点がしっかりとそこに在ることを示すものである。

 残念なことであるが、正直断言させてもらうと、この石岡にはその文化の原点になる暮らしの心が見えてこない。一緒に観にいった兼平さんも、市民の舞台を一体となって創りあげている、という気迫のようなものを感じ、驚かれていた。だから演劇表現については色々問題点も多いが、それを市民全体で帳消しにしている。

 この事は、宙の代表で演出をやられている市川紀行氏のお力であろうと思う。今の石岡では決して感じ取ることの出来ない希望的愉快である。

 劇団「宙」は、もともと地域の暮らしの物語を演じてきたそうであるが、私の個人的にはその出発点に戻していただけることを期待するものである。

 霞ヶ浦を中心とした常世の国の南部である「信太」からと北部対岸の「行方」「鹿島」「茨城」方面から、丁度、武借間命と黒坂命が霞ヶ浦沿岸の原住民・蝦夷を滅ぼすが如く、千五百年、いや千七百年後なのであろうか、平成の世に今度は希望の文化進攻が始まると、愉快、愉快と思うのであるが。