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風に吹かれて(10-8)      白井啓治  (2010.8)

    

 熱波に揺れて真紅に染めて百日紅 花かげにミューと鳴く 

 

先月号の「風語り」の欄に『庭の雑草の中に野良猫の死んでおる』という一行の詩を書いたのであったが、猛暑の続くなか百日紅の花が例年になく真っ赤な色を染めて咲いた。

この百日紅の根本に庭の雑草に行き倒れ、死暮れていた野良猫を埋めてやり、夏には真赤な花を咲かせろ、と言った所為なのだろうか、曼珠沙華のような色を染めた花をひらかせた。しかし、この赤の色は、今年の猛烈な熱波には良く似合って見える。そして、赤の色の間からミューと猫の鳴き声が聞こえてくるような気持ちにさせられた。  

先日の事、実に懐かしい言葉を耳にした。「アバンギャルド」である。革新的前衛とでも訳したらいいのであろうか…。アバンギャルドとは第一次大戦の頃にヨーロッパに始まった前衛的芸術運動である。つまり、既成の観念や流派、型等を否定し、破壊して新しい表現を創ろうという動き、活動の事を言う。

この「アバンギャルド」なる言葉は、60代、70代中頃までは何かにつけて使われていたように思うが、今は死語にも近い言葉になってしまった。だが、今突然のようにこの言葉を思い起こされてみると、実に大切な言葉であったと思う。

当ふるさと風の会は、ふるさとの歴史・文化の再発見と創造を考える、を軸に集まった者達の志述を発表する会であるが、その目指すところのものは「ふるさとアバンギャルドである」という事が出来る。

しかし、アバンギャルドとは、歴史的文化を有している所に生まれるもので、歴史的文化が角質化し自由で自在な柔軟性を失ない新しい創造を生み出せなくなってきた時に起こる破壊的衝動であると言える。その意味では、ルネサンス活動と同種のものである。

ところが、この石岡という地を観てみると、その歴史や継承される文化は、都合のよい改ざんの繰り返しで、その都度もとの歴史を捨ててしまったといえる。こうした現在にとっての不都合を何もかも捨ててしまうような風土の中で、しかも逼塞し過ぎた中で、アバンギャルドを志向したとしても、それが果たせるのかは全くの不問であった。

しかし、ふるさと風の会を振り返ってみると、打田昇三兄の打ちたてた打田史学としての「歴史エッセイ物語」、兼平ちえこ聖女の「風のことば絵」、小林幸枝聖女の手話を基軸とした「朗読舞」などは、ふるさとルネサンスを越えた、「ふるさとアバンギャルド」であろうと思う。これは、ふるさとの文化が消滅しない限り後人に良き刺激を与え続ける文化遺産であろうと思う。

ふるさとアバンギャルドといえば、5月号から入稿頂いている鈴木健聖人こそ大先達であろう。小生、鈴木聖人との面識はずっと後になるのであるが、石岡に来て、歴史の里とは言いながらその市史を見ても貧しい物語しかない(物語の内包しない)ことに失望した中で、何気なく本屋で出合った聖人の著書に、歴史の里にふさわしいアバンギャルドに遭遇した思いにさせられたのであった。

その大先達者から原稿を寄せられるようになった当「ふるさと風」も、なかなかどうして大したものではないかと、自画自賛である。

何とも大袈裟な話しになってしまった。書いていて些か照れくさくなってしまった。しかし、いかなる制約も受けないで、言いたい事を述べるのが本紙である。

 

日の移ろう速さに些か戸惑っている昨今である。ことば座六月公演の時に母が命を終え、公演後に慌ただしく家族葬を済ませ、先日はゲリラ豪雨の中、納骨をすませた。そして息つく暇もなく、11月公演の台本執筆のために、猛暑の中、難台山に登ってきた。

じっくり構想を練る暇も与えられず、もう8月号の会報の編集である。棺の中の母の顔を思い出してみると、慌ただしい時の移ろいを実感しているうちは、まだやらなければならない何かがあるからなのだろうと思う。