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風に吹かれて(10-6)      白井啓治  (2010.6)

    

 『花は散ってこその美しくあり』

 『いかにあっても枯れることの美しくもなし』

 

 今年の春の花たちにはどこか恋に躊躇っているかのように思えたのは、不安定な陽気の所為であったのだろうか。前日との温度差が十度、十五度なのだから躊躇いの笑顔しか作れなかったのは仕方のない事であろう。花の命そのものは例年より長いように思ったのだったが、華やかさに欠け、満面の恋笑顔、とはいかなかったのだろう。花に誘われて忙しく働く蜜蜂達もさぞ戸惑ったことだろうと思う。そんな事を思いながら、「花は散るから美しいのだ」とおもってみたのであったが、すぐさま否定的な言葉が浮かんでしまい、散り枯れた花びらをみて何が美しいものか、と悪態を言葉にするのだった。

 枯れるという言葉で直ぐに思いだされるのは、義姉(兄と呼んでいた従兄弟の奥さん)の事である。随分と可愛がられ、言いたいことをずけずけと言える素的な女性であった。彼女に、義姉さんは美しく歳を重ね枯れていってくれ、の様な事を言った時、すかさず「枯れたら美しくないのよ。私は枯れないでパタンとあの世に行くんだから」と言われた。  

義姉はその言葉通り、六十歳を過ぎるとこの世にさっさとさようならをしてしまった。以来、私は知った風に「美しく歳を重ね…」「美しく枯れて…」と気取ると、義姉に天から拳骨をもらった気分となり、それを直ぐに打ち消す言葉を言う様になった。「やっぱり萎れた花には華はない」と。

 「だから!」

ことさら力んで強調することは無いのだが、何時も恋をして心に華をなくさないようにと思っている。  

 六月十八日から二十日までの三日間、ことば座の公演に合わせて「風の会展」を行う。風の会もいよいよ五年目に突入である。五年をクリアし、七年をクリアすれば、本物の月刊紙となるだろうと思っている。勿論、今だって本物であるが、ふるさと文化紙として広く認知される、という意味である。その為には、もう少し若い会員が集まってくれることが望まれる。

 文章離れが言われて久しいが、実際には携帯メールだとか、ブログだとかで、一昔、二昔前よりも文章を書くことが多くなっている様に思う。同時に活字離れと言われるが、印刷本を買わなくなっただけの事。そんな風に私は思っているし、感じてもいる。

 風の会の人達とは良く話をするのであるが、文章に上手下手はありません。感動を与える文章と感動を与えない文章があるだけです。幼く稚拙と思われる表現であっても、感動を与えてくれる文章は沢山あります。反対に豊富な言葉をこれでもかと使って書いても、無感動であったり、卑猥で反吐が出る様な文章があります、と。

 会員の打田兄とは良く話すのであるが、打田兄は、『文章を書くのが嫌だという人の気が知れない。文章を書き自分を表現できるのは人間としての特権なのだ。それを放棄して嫌いだという人は人間を放棄しているとしか思えない』と仰られる。その言葉を受けて私は、『文章を書くことを嫌いにしたのは、馬鹿教師達で、自分でも解っていない上手下手の尺度を持ち込んだからだ』と声を荒げる。

そしてついでに、『音楽を嫌いにしたのは音楽教師、絵を嫌いにしたのは美術教師、スポーツ嫌いにしたのは体育教師』と言わせてもらおう。その理由は、尺度の無いものにまで、尺度することに何も疑問を持たないから。

 しかし、そう言う私が脚本家という仕事を選ぶ最初のきっかけを作ってくれたのは、小学校の時に、「白井君、とっても良い詩だったよ」と褒めてくれた教師がいたからであった。

褒めれば良いというものではないが、下らない尺度をあてて上手下手を言うよりは遥かに良いだろう。

 それで、唐突の締めくくりであるが、打田兄の言われるがごとく、人間を放棄したくない人、ぜひこの「ふるさと風の会」にご参加ください。

連絡をお待ちしております。