「 常陸国府の源平合戦 」         打田昇三

 

 食生活が多様化している現代では余り聞かないが、少し前までは祝い事の引き出物と言えば「紅白の饅頭」が主流であった。饅頭は何色でも良い筈だが、紅白なのは日本に伝わった色彩の中で「紅(くれない)」が一番に古く、染める材料も高価だったため祝いに紅白が定着したと色彩事典では説明している。

 その説に異論は無いが、もう一つ紅白が世の中に広まった理由として思い当るのが「赤旗と白旗を風に靡(なび)かせて戦った」と多くの軍記物語で語り継がれた平家と源氏の争い、いわゆる「源平の合戦」の影響であろう。

 源氏・平家と言っても茶道や華道などの習い事と同じで多くの流派があり家元は天皇家になる。歴代の天皇で、主に経済的な理由らしいが皇位を継がせたり皇族として残すことが出来そうにない子供や孫などに「源・みなもと」」「平・たいら」などの有難いと思わせる姓(かばね)を与えて一般市場へ放出した。つまり民営化の元祖みたいなもので、皇族から出た証拠に立派な苗字を与えるから、後は自分たちで食ってゆく道を探せ!と言うことである。

平氏の場合は「平氏四流」と称して第五十代・桓武天皇の子・葛原(かずらはら)親王を祖とする「桓武平氏」などの四流派だが、源氏の場合は第五十二代・嵯峨天皇が子供三十二人に一字の名を餞別代りに与えて源姓にしたのを手始めに、仁明源氏、宇多源氏、清和源氏など二十一の流派があり、清和源氏だけでも十以上の系統があるらしいから珍しくも無く、殆どの末流は世間から忘れられてしまうことになる。そうした中で早くから皇族や藤原一族に代わって朝廷の軍事面を請け負っていた「清和源氏」と「桓武平氏」だけが世間に知られるようになり何時の頃からか「源氏」と言えば「清和源氏」を指し「平家」と言えば「桓武平氏」を呼ぶようになった。この両氏は、皇族から離れる際に餞別代りの名前では無く、白い旗印と赤い旗印を貰って家門の誇りとするように言われたから、饅頭と同じ「紅白」で売り出したのである。

葛原親王の孫は高望王(たかもちのおおきみ)と言い、寛平元年(八八九)五月十三日に「平」の姓と「赤旗」とを貰って「平高望」となり、皇族の籍から抜けた。同日付で上総介(かずさのすけ)に任命されたから赤旗を担いで遥々と東国へ下って来た。上総の国府は現在の千葉県市原市に置かれていた。この時に兼任の職務として常陸国の大掾(だいじょう)職も命じられた。「介」は次官であり「大掾」は次官を補佐する判官の職務である。現代で言えば千葉県副知事で茨城県庁の総務部長を兼ねたような地位であった。

葛原親王は桓武天皇の第四又は第五皇子とされている。余程、優れた人物だったようで本来ならば天皇に相応しいのだが、母親が藤原一族では無かった。桓武天皇とその父親の光仁天皇は藤原一族のお蔭で手の届かない天皇にさせて貰ったようなもので藤原氏に逆らえない。桓武天皇自身は葛原親王に皇位を譲りたくても果たせず、母親が藤原氏だった嵯峨天皇など第三皇子までは天皇になった。その埋め合わせで、葛原親王は皇族として最高の地位を得ると共に一等国の常陸国の長官を二度も務めた。関東地方の各地には、ついでに貰ったと思われる大きな荘園を持っていたから、それを足掛かりにして関東へ来た孫の高望王と桓武平氏一族が常陸国に定着することになる。

 例えば「越前守」とか「播磨守」とか、日本六十余州の国守である中級官僚の「守(かみ)」は現在の県知事に当るが今より権限が大きく、源氏物語には「受領(ずりょう)」と表現している。常陸、上総、上野(こうづけ)三か国の国守は、六十八か国に十三しかない大国の中でも特に皇族が任命されるから「太守(たいしゅ)」と敬称されていた。太守は現地へは来ることなく都で給料だけを貰う。この三か国では次官の「介(すけ)」が実質的な長官になるので「守(かみ)」と呼ばれて受領の仲間に入る。受領は赴任中に財産を貯め込むことで知られていた。威張っていても都に帰れば公卿(くげ)の身分には入れて貰えない五位止まりの官位だからである。「介」を補佐する大掾などは、当時の陰陽師か大学の助教授と同じ低い官位だが実際の権限を握っているから儲かった。

鎌倉時代初期の説話集である「宇治拾遺物語」には、「百人一首」でも知られた名歌「いにしへの奈良の都の八重桜けふここのへににほひぬるかな」の作者である伊勢大輔(いせのおおすけ)の娘で、本人も歌人として知られた「伯母(はくぼ)」と言う女性が常陸介・藤原基房と結婚して石岡に住み夫の任期満了に伴って都へ帰る際には大掾氏から莫大な餞別を貰った話が載っている。藤原基房は餞別の多さに驚いて心臓を悪くし都へ帰ってから死んでしまった。その二十年ほど前に、伯母の姉が京都を訪れていた大掾氏の当主に金の力で騙されて常陸国筑波山麓へ連れてこられていた。姉は亡くなり、餞別を持ってきたのは伯母の姪になる二人の姉妹である。この話は平国香の子孫が常陸大掾氏の職を世襲して「大掾氏」を名乗り日本一とも言われた大豪族になったこと、そして都へ帰る常陸介も貰い物を当てにしていたことを暗示している。

また、宇治拾遺物語よりも早く平安時代後期に作られた「今昔物語集」には、

「転んでも只は起きない」役人根性の見本として信濃守(長野県知事)の任期が終わって都へ帰る途中の藤原陳忠(のぶただ)と言う人物が事故に遭った話を伝えている。陳忠は任期中に貯め込んだ品々を積んだ馬の行列を従え山道を進んでいたが、長野と岐阜の県境にある峠で乗馬が脚を滑らせ陳忠も馬も谷底へ転落してしまった。深い谷で途中に樹木が生えており谷底が見えない。家来たちはどうして良いか分からず右往左往するばかりであった。その時、谷底で何やら怒鳴る声が聞こえた。家臣がのぞき込み「おかみ、ご無事ですか、お怪我はありませんか!」と問いかけると、「馬鹿者!そのようなことはどうでも良いから、早く荷物籠を下ろせ!」と言う。お土産を積んだ荷籠の一つを馬からはずし、綱を付けて谷底へ下ろすと合図があった。家臣が籠を引き上げたが、妙に軽い。取り上げて見ると籠には一杯の茸が入っていた。当時は山中に自生していたシメジの一種で平茸(ひらたけ)と言う。本人は転落する際に生い茂った樹木の小枝で支えられ谷底近くに軟着陸をしたらしい。怪我も無く沢山の平茸を収穫してから本人が上がって来た。安心したり呆れる家臣に藤原陳忠は

「『受領は倒れても只で起きるな土を握れ!』と言うではないか、丁度、落ちた大木に平茸が生えていたから獲ってきたまでよ…」と涼しい顔をしていた。

皇族出身とは言っても、その受領階層になった平高望は上総国府に来てから大掾職を兼ねている常陸国府へも顔を出した。筑波山と霞が浦は目の前に在り、気候が穏やかで、土地が広く、都へは東海道が通じている。その頃の常陸国府では高望に上司が居なかったと思われる節があり、居たとしても昨日まで皇族だった人物には誰もが気を使う。平高望は常陸国が気に入って、上総国へは時々、顔を出す程度だったと推測される。上総国でも長官が居ない方が仕事はし易い。

都育ちの王族などは、地方勤務が終わったら早く都へ戻って次の官職を得ようとするものだが子孫に日本一の豪族を生んだ平高望は、さすがに考えが堅実で

「儲からない役人の地位にぶら下がるより、自分の財産を増やすことが大切」と荘園を開発することに専念した。その当時は多分、石岡で官舎暮らしをしていたであろうから常陸大掾の官舎跡が分かれば、その場所こそ玄関に赤旗を飾っていた「桓武平氏発祥の地」になるのだが…

長良川などで知られた「鵜飼い」の鵜は狎れてくると、どうせ取り上げられる大きな鮎は獲らずに、自分が呑み込める小さめのものを狙うという。奪い取られると分かって汗水垂らして耕す者は居ない。奈良時代に先立つ白鳳時代に制度化された「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」は、設定期間の不備から人口増加に伴う田地不足と耕作民の意欲減退などを生じて衰退した。その打開策として登場した「三世一身法(さんぜいいっしんのほう)や「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」は逆に豪族、大寺院などの土地私有化を増大させる弊害が起こった。私有地は免税と国家権力に介入されない特権を持ち、没落農民などは荘園の使用人となって組織化され、後には農民と分離して武士団に発展するのだが、その先駆けとなったのが常陸国である。平安時代に記録された耕作地面積は、陸奥国(青森、岩手、宮城、福島の四県)が一位で約五万一千ヘクタール、第二位の常陸国(県西部を除く茨城県)だけで約四万ヘクタールとする。土着豪族が開発する土地は幾らでもあった。

高望の嫡男・平国香こと平良望が常陸大掾兼鎮守府将軍(ひたちだいじょうけんちんじゅふしょうぐん)に任命されたのは承平元年(九三一)とされている。鎮守府は蝦夷防衛の前線司令部で、始めは多賀城に置かれたが、国香の頃は岩手県胆沢(いさわ)城に在った。坂上田村麻呂の征討などで当時の東北地方は概ね大和朝廷に服属していたから、将軍が現地に詰めていなくても良い状態であったと思われる。将軍の位階は常陸大掾よりも遥かに上の従五位なので、これは桓武平氏の格付け人事かも知れない。国香は勿論、その弟たちも地方高級官僚として茨城、千葉に土着し各地に荘園を増やしていった。

平国香は一度ぐらい胆沢まで行ったかも知れないが、普段は筑波山の向こう側になる旧・明野町石田(しだ)に屋敷があり、馬で筑波山を越え石岡まで通ったり、石岡の官舎に泊まったりして常陸国府に勤務していた。国道一二五号線の北条から分かれた県道十四号線が筑波参道入口を過ぎて数キロの桜川対岸に見える台地が東石田(ひがししだ)の集落で、そこに「国香の館跡」と伝えられる場所が現存している。個人の畑になっているが、その場所で平将門との合戦により国香は討ち死にしたか、負け戦を恥じて自殺したか…畑の隅に粗末な石塔らしき二つの石があり「平国香の墓」と言い伝えられている。

石岡市は平将門の攻撃を受けて常陸国府、常陸国分寺を始め三百戸以上の家屋が焼かれ、家財を奪われ、多くの人が殺害されたと言われる。その時から六五〇年も過ぎた戦国時代末期の天正十八年にも佐竹氏に攻められて町は焼かれ府中城が落城したと言うのだが、今では城の跡地も分からず、落城に伴う伝説さえも忘れられている名ばかりの「歴史の里」で、言わば敵になる平将門のことなど何一つ分かる筈は無いのだが、有難いことに事件の直後に書かれたらしい「将門記(まさかどき=しょうもんき)」が伝わっている。異説もあるようだが、当時は石田の里から小貝川寄り数キロの赤浜に比叡山延暦寺と肩を並べる「東叡山承和寺」と言う大寺院があって、そこの僧侶が「将門記」を書いたとも言われる。昔の地名などが克明に記録されているのである。その寺は千妙寺と名が変わって筑西市の黒子に移され現存している。

「将門記」は一部に欠損もあるらしいが次のような書出しで始まっている。

「それ聞く彼の将門は、昔天国押撥御宇(むかしあめくにおしはるきあめのしたしろしめす)柏原天皇五代の苗裔(びょうえい)、三世高望王の孫なり。其の父は陸奥鎮守府将軍平朝臣良持なり。舎弟下総介平良兼朝臣は将門が伯父なり。而るに(しかるに)良兼は去ぬる延長九年を以て、聊か(いささか)女論に依りて、舅甥(おじおい)の中既に相違う…」(書き下し文は平凡社刊による)

将門の父親を「良持(よしもち)」としているのは「良将(よしまさ)」の誤りとする説が多く、良持では話が合わないので「良将説」に従っておく。

承平・天慶の乱と呼ばれる平将門の事件については、この将門記を根拠として多くの著書に書かれているが、平氏一門の内輪揉めと考えられていた事件の発端をどのように解釈するかで、それぞれの主張が大きく違ってくる。平国香に幾分でも所縁があり、また一千何十年も前とは言え、町全体を焼かれた石岡の市民としては、どうしても「被害者意識」で平将門を見てしまう。同じように石岡を焼き払った佐竹は短期間でも占領した石岡を支配統治したから悪く言われない。不可解であるが、私たち現代に生きる者は「歴史」と言う過去の謎を教訓とする為に、事実に近いものを探っておく必要があるように思う。

事件が起こった当時はどのような世相であったのかを見ると、将門記の冒頭に書かれた延長九年は四月迄で承平元年(九三一)になるが、この年には第六十一代の朱雀天皇が僅か九歳で即位した。菅原道真を貶(おとし)めた藤原氏が天皇家を抱き込んで政治を欲しい侭にする「摂関政治時代」の幕開けである。幼い天皇は菅原道真公の祟りを恐れて常に母親である前皇后に抱かれて育ったと言われる。国家の元首がそういう状態であるから、鎮守府が押さえていた奥羽地方を除き治安が悪く、都には盗賊が群れを成し、地方には山賊や海賊が出没して庶民を苦しめていた。それらの犯罪を取り締まる司法機関は小数の検非違使だけでとても手に負えない。中には寛大な役人が呼びかけて数百人の海賊を服従させ、その連中は「前海賊」という名称を貰って威張っていたという筋違いの話もあった。そのような時代であるから、「武士」と呼ばれる階層が未だ現れてはいないものの武装した豪族同士が争えば大事件にはなるのである。

承平元年には既に平将門と一族との対立が生じていたのだが、争いの原因は領地問題というのが事件の共通認識である。父親に早く死なれた平将門は相続した広大な領地を伯父たちに預けて都へ行った。そして何年か経ち立派な青年となって戻ってきた。留守中は常陸平氏惣領の平国香が全般を見ていたと推定されるが、具体的には次男の良兼が管理していたのであろう。良兼は上総介であったから、下総介を兼務して平将門が相続すべき所領も管理していた。勤務地は千葉であるが筑波山麓の羽鳥に館と荘園があり、旧・大和村に在った将門の領地にも接していた。そのいずれかの関係でトラブルがあったかも知れないが合戦に拡大するものでもない。将門記の冒頭にあるように「女性問題」が承平・天慶の乱に至る重要な要素になるのである。一般に女性がらみの騒動と言えば「惚れた腫れたの痴話喧嘩」と相場が決まっているが、この場合は多くの研究者が頭を悩ますほど内容が分からず種々の説がある。要は「問題の女性が誰で、将門と伯父の良兼にどのように関わっているのか」なのである。その中で将門記の記述に沿って最も妥当と思われのが、大正・昭和前期に活躍した劇作家・真山青果さんが推定した人間関係であろうと思う。

平国香を長男とする桓武平氏兄弟は八人程であるが、そのうちの何人かは俗に言う「庶出」つまり余所で産ませた子供と推測される。一夫多妻の当時であるからメーカーに拘る必要は無いのだが、始祖の葛原親王の場合のように母親により待遇が変わってくる。赤旗を貰った平高望の夫人が誰だか不明だが、長男の国香と将門の父親である三男と、その下の良繇(よししげ)は嫡出で、問題の次男・良兼たちは母親が違っていたと思われる。その理由は「陸奥鎮守府将軍職」など官職への就任である。国香たち本妻の子と推定される三人は鎮守府将軍を歴任している。特に平将門の父親である三男の良将は優れた人物と言われて父親の高望から最も期待されていたらしく、相続した領地も筑波山麓の他に結城郡、猿島郡、相馬郡に在ってようで兄たちよりは多かった。その中には将門が新たに開拓した暴れる川の鬼怒川沿岸部も含まれてはいたであろうが、面積で言えば兄たちの何倍にもなる広さである。それだけでも相続者の将門に対しては伯父たちから嫌味の一つも言われる要素はある。

将門記によれば良将の役職は鎮守府将軍と兼ねて下総守とあり、官位も一段高い「従四位下」に進んだ。兄の良兼は下総・上総の次官と兼職ではあるが鎮守府将軍に仕える「陸奥大掾」に留まっている。腹違いの弟が一国の守で兄である自分が全ての官職で下というのは面白くない。その弟が若くして世を去りうまくゆけばが自分も将軍職に就けるかと期待していたがダメだった。

そういう背景がある上に領地問題で将門との関係が拗(こじ)れ始めたから、両者は疎遠になるのだが、世の中は皮肉なもので、その良兼の娘の一人が従兄弟である将門と愛し合うようになったのである。この娘は器量良しで気立ても良かったらしく、父親の良兼は自分の出世に役立てようと大事にしていたから将門とのことを知って烈火の如く憤り娘を館から出られないようにした。しかし生木を裂くようなことをしても、恋愛真っ盛りの二人を止めようも無く娘は風呂敷包み一つを抱えて家出を決行し、将門の許へ走ってしまった。

さて、此処で登場するのが先に述べた嵯峨天皇に一字の名前を貰って皇族から臣下に下った三十二人の嵯峨源氏の系統と思われる源護(みなもとのまもる)

という人物である。何しろ数が多い嵯峨源氏であるから平氏の始祖・葛原親王のように履歴が明らかではない。多分、平国香が任命される以前の常陸大掾だったらしく、退職した後は下妻市にある大宝八幡宮近くの要害地に館を構えており、また平国香が居た石田にも別邸があった。国香一族とは深い縁戚関係にあり、国香の嫡男、後に平将門を討った平貞盛や問題の良兼と一番下の弟・良正などが源護の娘を妻にしていた。嵯峨天皇は葛原親王の兄であり、源氏・平家と言っても同族である。然も常陸大掾職の先輩後輩で二重三重の縁があるから平国香も源護を尊敬していた。その源護には年頃の息子が何人かいた。桓武平氏と違って「旗」が無いから嵯峨源氏である証拠を残すため一字名で「扶(たすく)」「隆(たかし)」「繁(しげる)」などと呼んでおり、その三人のうちの誰かが、義兄の平良兼の娘を見染めたのである。

 親属関係から言えば姪に惚れたことになるが、当時は一夫多妻の時代であるから血縁は無かったようで、両方の親やら長老の国香なども良縁だとして縁談を進めようとしていた。ところが肝心の娘は同族の将門に惚れているから良い返事をしない。そのうちに家出という事態が生じて源平両家が当惑する。

それに先立って国香は都から戻った将門にある縁談を勧めていた。相手は源護の娘である。将門が承知をすれば源氏と平氏のつながりが二重三重になると共に、新参者である将門が平氏長老・国香の傘下に入ることになり国香の威光が増すのである。こじれていた領地問題もウヤムヤで解決したかも知れない。しかし既に良兼の娘を意中の女と決めていた将門は伯父の話を断った。自分の留守中に母親たちが苦労をさせられたことを聞き、何となく伯父の魂胆に疑惑を感じていた将門の精一杯の抵抗だったかも知れない。こうして常陸国筑波山麓で起こった二つの縁談の縺(もつ)れ話は、桓武平氏と嵯峨源氏というプライドの高い両家の統領に堪え難い屈辱を与えることになった。

承平五年(九三五)二月二日の朝、平将門は所要で下野国府へ向かっていた。

将門の館は常総市石下にあり、栃木市近郊の国府へは下妻〜結城〜小山と行けば良いのだが、当時は騰波の江(とばのえ)と言う大きな湖が行く手を遮っていたため北東に抜けて現在の下妻・筑西・つくば各市が接する辺りから北上する道を進んだ。供は百騎ほどである。目と鼻の先には疎遠になった伯父・国香や源一族の館があるから気を使って夜が明けないうちに出かけても十数キロを来たので辺りは少し明るくなった。薄明りに見えたのは一行の行く手を塞ぐ数百騎の軍勢の影であった。恋の恨みで源氏三兄弟が待ち伏せしたのである。

将門記では書き出しの「…舅甥(おじおい)の中既に相違う」から突然に合戦の場面に移るから、その前に欠けた部分があって、どちらが喧嘩を仕掛けたか分からないと言われているが、原文だと平将門が敵の攻撃を受けたことになり、多くの史書がその説をとっている。

 「裏ら野本『…欠字…』扶ら陣を張り、将門を相待つ。遥かに彼の軍の体を見るに(中略)旗を靡(なび)かせ鉦(かね)を撃つ。(中略)爰(ここ)に将門、罷(や)めんと欲(おも)ふに能はず。進まんと擬(す)るに由なし。然れども身を励まし勧(すす)め拠(よ)り、刃(やいば)を交えて合戦す。

将門、幸いに順風を得て、矢を射ること流るるが如く、中(あた)る所案の如し。扶ら励ますと雖も、終に以て負くるなり。仍(よっ)て亡ぶる者数多く、存(ながら)うる者己(すで)に少なし」(「裏」は武将の名?)

 平将門の乱の発端である「野本の合戦」はこうして起こった。待ち伏せていた数倍の敵を粉砕した将門は、源氏三兄弟を討ち取り、勢いに乗って敵の領地を焼き払い、源護に泣きつかれて救援に来た平国香を死に追いやったのであるが、この時に「将門と舅甥(おじおい)の間で仲違いをした」と将門記に記録された良兼は合戦に加わっていない。しかし息子三人を討たれ館を焼かれ、恥を晒した源護は縁戚の平氏一族に対して執拗に将門討伐を申し出た。このため、良兼兄弟や国香の長男・貞盛ら源家から妻を迎えていた平家の者たちは一族の将門と争わなければならない立場に置かれてしまい、一族から孤立した平将門を敵とする戦いが各地で行われ次第に戦火が拡大するのである。

 四年後の天慶二年(九三九)十一月二十一日、将門は一千の軍勢を率いて常陸国府のある石岡に攻めてきた。この時の事実上の国司である常陸介・藤原惟幾(これちか)は平国香の妹を妻にしていた。その叔母を頼って国府には平貞盛が隠れていたのだが、将門は知らなかったと思われる。国府の役人で大掾職の下に居た岩瀬地方の豪族・藤原玄明(はるあき)が上司に逆らって国府から逮捕状が出されていたのを取り下げるように要求して国府へ来たようである。

国府側は将門の申し出を蹴った。玄明は悪人のように書かれているが、岩瀬山中に墓があり今でも大切に守られているところを見ると、過酷な税の徴収について上司に異議を申し立て悪人にされた可能性もある。当時の日本は全国的な作物の不作と疫病などで庶民は苦しんでいた。孤軍奮闘する将門が正義の味方のように思われて、権力社会から睨まれた者たちが将門の許へ集まりはじめた。そうなると一族の争いでは済まなくなり、国家への反逆行為とみられてしまう。

将門は一千の兵で石岡の町を囲んだ。当時、国府には三千の兵が居たのだが、

囲まれたのを見て慌てて降服してしまった。丸く囲んだので円周率を掛けて敵の勢力を三一四〇と計算したのかも知れない。内部に裏切りが出たとする説もある。敵が降伏したと知るや、町には兵士たちが雪崩れ込んで略奪を始めた。常陸国府には税として集められた高価な絹織物が山のように積まれていたのである。兵士の大部分は貧しく暮らす農民であり、宝物である絹織物一五〇〇〇反を見て暴徒に変わるのに時間はかからない。やがて町の一角に火が放たれて華の国府が地獄と化し、この出来事で平将門は凶賊になった。

 その前年のこと、将門は現在の府中市に置かれた武蔵国府でのある紛争に関わった。その年に人事異動があり、武蔵守と武蔵介が同時に交代したのだが、

新任の二人が慣例を無視して正式な辞令が届く前に国府へ来て政務に口出しを始めたため、実務を司る武蔵大掾がこれを咎め下級職員たちも異議を申し立て双方が対立した。国司側は権限を乱用して武蔵大掾を攻めたのであるが、これに義憤を感じた将門が武蔵国府に出かけて調停を図ったのである。

 その時の国守は系統が明らかでは無いが桓武天皇系と思われる王族で興世王(おきよおう)と言い、後に将門の仲間に入り賊として殺された。次官である武蔵介は源経基(みなもとのつねもと)と言った。常陸介に転じて将門に攻められた藤原惟幾の後任だという。経基は清和天皇の六番目の男児・貞純(さだすみ)親王の子で天皇の六番目の子に生まれた孫なので「六孫王」と呼ばれていた。実は、この人物こそ白旗を掲げて平氏と戦った清和源氏の始祖になる訳なのだが、当時は官位も地位も低く、桓武平氏のように武門の頭領として皇族から下ったのでは無いように思われる。武蔵国府の争いに平将門が顔を出した時に、何かの手違いがあって自分が危ないと感じた源経基は「将門謀反」と都へ訴えてしまった。当時の太政大臣は都に居た頃の将門の主だった人物なので真相調査の役人を派遣し将門の無実が証明された。源経基は大恥をかいたことになるが、調子に乗った将門が次の年に常陸国府へ攻め込んだことで事情が大きく変わってきた。経基の預言どおり平将門が謀反人になったのである。

 源経基は平将門追討の副将軍として意気揚揚と関東へ出陣してきた。この一行が駿河国まできた時に、将門は国香の子・貞盛と藤原秀郷らの軍勢によって滅ぼされた。将軍は引き返したが、経基は関東に向かい将門の残党狩りを命じたから、その功績で次第に出世をし、諸国の受領を経て陸奥鎮守府の将軍にも任命され正四位を貰った。桓武平氏と並び清和源氏が白旗を靡かせ武門の家として朝廷に用いられるようになったのは、それ以後のことと推定される。

 赤旗を授けられ武士の魁(さきがけ)となる筈のところ、同族の争いから清和源氏に出世の機会を与えてしまった桓武平氏が世に出るのは平将門を討った貞盛から七代後の平清盛からである。かつて将門が夢見た藤原一族に代わる天下を手中にした清盛の時代は、やがて白旗を掲げた経基の子孫・頼朝によって奪われた。栄枯盛衰は世の習い、その興亡の歴史に常陸国府の在った町・石岡市が大きな関わりを持っていたことを、我々は誇るべきか悲しむべきか迷うが、紅白饅頭も姿を消した今、物語は後世に伝えていかねばならないと思う。