伝承民話は未来の思い出

   2004年6月、民話ルネサンス講座受講生の方へ:白井啓治) 

民話の里というと遠野を思い浮かべる人は多いでしょう。しかし、遠野には他の地域と比べて特別民話が多いというわけではありません。民話を伝承していくという文化が確りと根付いていたということでしょう。もともとは日本国中、すべての地域が民話の里でした。伝承されていた民話の数もおそらく大差のないものだったと思います。

民話とは、民衆の中から生まれ、語り伝えられてきた説話(物語)のことを言いますが、民話を細かく見てみると、神話的なものや伝説的なもの、童話やおとぎ話的なものから夜這い話のような日常の下世話な話のようなものまでたいへん幅広いものがあります。つまり、民話とは、その地域の日常生活そのものであり、地域固有の文化だといえます。

民話はある年月にわたって語り伝えられるものですが、そのライフサイクルは何代にもわたって語り継がれるものもあれば、うわさ話のようにすぐに忘れ去られてしまうものもあります。何世代にもわたって語り継がれてきた民話を伝承民話といいますが、この伝承民話はその地域の活性と密接なつながりをもって語り伝えられてきました。例えば、産業という側面に見てみますと、養老の滝に類似する伝承民話が各地にあります。そして、その伝承民話のある地には必ず銘酒が多く造られています。これは、民話と酒蔵が両輪となって研鑽をもたらし、銘酒を造りだしてきたのだということができます。

伝承民話の地域活性との関係は産業にのみとどまるものではありません。特筆する産業がなくても伝承民話の多く残す地の人々の心の豊かさは、柳田國男氏の遠野物語を読んでも納得がいくものです。

表題に「伝承民話は未来の思い出」と誌しましたが、何世紀、何世代にわたって伝承されてきた民話を読むと、そこには未来への道しるべのようなものをみることができます。そして、その道しるべをたどってみると、現在の町や村の姿のあることが分かります。

この百年を振り返ってみると、破壊の開け暮れだったといえます。当然各地に伝承されてきた民話も破壊されてしまいました。そして、民話の破壊され、伝承の途絶えた地域の衰退は目を覆いたくなるものがあります。客観的には生産のない経済を追い求めたことの当然の結果とはいえ、自信を振り返ったとき、そうした流れの片棒を担いで来た者の一人であったろう責任も大きく感じます。

民話の伝承がなくなったというのは、民話が示していた未来が過ぎてしまったことを意味します。つまり、その民話が用無しになったということです。自分の町や村に伝承する民話がなくなってしまった、ということに厳しい目を向けて考えてみますと、自分の町や村は用無しになってしまった、ということと同じ意味につながります。

民話に限らず、伝承の実際を見てみますと、もとの姿をそのままに伝えられているものは殆どありません。時代時代に改善、改良、改訂が与えられて伝承に値する未来への道しるべとしての思い出が紡ぎ込まれてきたのです。伝承というのは、そこに捧げすすめることのできる内容と、それを受け頂いても良いという内容があってこそはじめて成立するものです。だから、捧げすすめるものには、常に見直しを与え、それが未来の思い出(未来への道しるべ)に値する文化として再構築しておくことが必要なのです。

民話をルネサンスして伝承を与えるということは、その地域の復興にはなくてはならないことです。自分達のふるさとの将来を考え、後人に未来を残すためには、民話に限ったことではありませんが、そこにルネサンス活動がなければなりません。そして、伝承を与える創作者の多く登場することが地域振興と活性化には不可欠の要件といえましょう。

伝承を復興する人、伝承する人が今こそ必要とされている時だろうと思います。   

 

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